観光

観光・文化

市指定文化財

建造物

山口の大仏

谷地中の石鳥居

愛宕神社社殿

愛宕神社石燈籠の竿柱

慶長八年棟札及び寛文十二年棟札

佛向寺の板碑と石仏

石佛寺の石仏群

清池の六面幢 

清池の大日板碑

多宝仏塔(東漸寺跡の宝塔)

徳正寺山門

上荻野戸の板碑

荒谷の板碑群

北原の層塔

安楽寺山門

絵画

紙本墨画寒山拾得図  伝 可翁宗然 筆

絵馬舎人曳駒之図(紙本着色神馬図)  最上家信 筆

絹本淡彩東都上野霧中之花図 東都上野不忍雨中之花図  歌川広重 筆

絹本淡彩武金沢雀ヶ浦図 武金沢飛石山図  歌川広重 筆

柳鴉之図(紙本墨画雨烏図)  郷目貞繁 筆

絹本着色松平康邦像  歌川広重 筆

絹本着色田野文仲像  歌川広重 筆

絹本淡彩東都隅田川図 東都飛島山図  歌川広重 筆

絹本淡彩吉野之櫻図 龍田川之紅葉図  歌川広重 筆

彫刻

木造伝行基菩薩坐像

木造僧形文殊菩薩坐像

木造不動明王立像

木造狛犬(一対)

銅造阿弥陀如来立像

華光菩薩(木造伝弥勒菩薩)倚像

木造徳本上人坐像

伝勝軍地蔵菩薩像(木造地蔵菩薩坐像)

工芸品

桐唐草鳳凰文様唐織貼付竹筒(文書入れ筒)

袖無編衣(阿弥衣)

鉦鼓(永仁三年三月日銘鉦鼓)

書跡

最上義光の書翰

吉田大八の遺墨

考古資料

大明神原出土の大刀 (第一号)

大明神原出土の大刀 (第二号)

異形土器

高野坊遺跡出土墨書礫

歴史資料

吉田大八像

天然記念物

原崎の鴨棲息沼

薬師神社のケヤキ林

熊野神社の大ケヤキ

建勲神社社叢

道満の三光ヒバ

田麦野のかさまつ

臥龍山西常得寺の蟠形杉

八幡神社社叢

元諏訪神社のハルニレ群

若松寺古参道沿いの樹叢

田麦野のオオヤマザクラ

舞鶴山のエドヒガン

水晶山の風穴群とハシドイの群落

民俗資料

寺津手人形芝居

寺津手人形関係資料

高擶夜行念佛

高擶夜行念佛講史資料

山口の大仏

 

所在地 大字山口

所有者 天童市管理

概要 高さ450㎝  幅(基礎)100㎝

製作年代 鎌倉時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 この大仏といわれている板碑は成生庄型である。大きさにおいて山形県内第一であり、頭部の額突出が大きく頂部の突出は成生庄型の特徴を示している。また、額上に二条の切込みがありその下の碑面上部にキリーク(阿弥陀如来)の梵字の種子(しゅじ)を彫り、これを大きな蓮華座が支えている。元来、碑面上には梵字のほか仏像や名号や偈(げ)などを刻むことがあるが、県内の板碑は阿弥陀を刻んでいるものが多い。場所は関山街道の旧道にあって、遥かに若松寺を望む所にあり若松寺観音参詣道に建てられた板碑である。また鎌倉時代のものは地方豪族や僧侶によって建てられたものが多いことから、この板碑も成生庄の官人や二階堂氏の造立とする説もある。

 大仏の石質は凝灰度の低いこの近辺の山の凝灰岩と認められる。そのため石質が軟らかく、打ち砕いて「オコリ(間欠熱)」の妙薬に煎じて服用したといわれ、板碑の下部に今もその痕跡が残っている。

 

谷地中の石鳥居

 

所在地 大字川原子

所有者 個人蔵

概要 正面右高さ 220㎝ 同左高さ 225㎝

製作年代 鎌倉時代

指定の区分 市指定有形文化財

            

 中世期の大道(横街道)から分岐し、陸奥国に向かう峰渡りの古道があった。その古道は旧山口村内二子沢から渡戸を通り新(荒)井原を経て谷地中にいたる。谷地中から東に向かうと水晶山への道となる。谷地中の石鳥居は正面に水晶山を仰ぐように建っている。水晶山は修験の山といわれ、『日本三代実録』貞観9年(867)に記される霊山寺があったとの見解もある。水晶山は、江戸時代は山形城下の大寺1370石の朱印状を持つ真言宗寳幢寺の支配下にあった。

 石材は、荒井原山から採掘されたものと考えられている。山寺で採掘される凝灰岩よりは軟質のため、形状に特徴が見られる。柱が四角形に近く、笠木を受ける枘穴だけで貫穴は見られない。

 

愛宕神社社殿

 

所在地 大字北目

所有者 愛宕神社

製作年代 江戸時代

指定の区分 市指定有形文化財

 舞鶴山山頂に建つ愛宕神社は天正(てんしょう)12年(1584)、天童頼久(よりひさ)(頼澄(よりずみ))との戦いに勝利した最上義光が建立した。舞鶴山は愛宕山とも呼ばれるようになる。「愛宕神社由緒」に、天正年間創立より後「二十年過ギ候テ焼失ス。慶長八年亥年ノ再建スル所ナリ」とある。さらに、二度目建立と書かれた慶長(けいちょう)8年(1603)の棟札(むなふだ)と、慶長8年建立より70年が過ぎ、建物が傷んだため修理を施した旨を記す寛文(かんぶん)12年(1672)の棟札が伝わる。この時の愛宕神社は本殿・拝殿が未分離であったようだ。幣殿(へいでん)と拝殿は、前書に延宝(えんぽう)6年(1678)建立とある。寛文12年の棟札から、本殿柱などには慶長8年の白木建物と異なり、彩色や彫刻が施されたことがうかがえる。その後社殿は、明治35年(1902)9月28日、風害により倒壊し、同39年(1906)7月2日に再建された。本殿一丈四面白木による神明造り、幣殿は15坪(約50㎡)、拝殿は28坪(約92㎡)と記録にある。

 本殿前階段には、寛文13年(1673)銘の「擬宝珠(ぎぼし)」二基が確認され、江戸時代前期の作と思われる幣殿の板壁絵「鷹(たか)の巣籠り(すごもり)図」には金泥(きんでい)が確認される。また、萩が描かれた板壁絵も見られる。

 

愛宕神社石燈籠の竿柱

 

所在地 大字北目

所有者 愛宕神社

概要 長さ65㎝ 幅20㎝ 四角柱

製作年代 江戸時代

指定の区分 市指定有形文化財

 本燈籠(とうろう)は宝珠(ほうじゅ)、笠、火袋(ひぶくろ)、中台(ちゅうだい)、竿(さお)、基台等からなるが、竿の部分のみ現存する。地中に埋もれてしまっていたのが掘り出されたものという。最上家の内紛によって破壊された可能性がある。

 竿部は四角柱からなり、一面には「奉納石燈籠カ」、二面には「愛宕御寶前」、三面には「慶長拾四年乙酉六月廿四日」、四面には「光氏 祈念成就之所 矢口左衛門尉 角川小源太 角河治部小輔」と刻されている。光氏家臣と思われる人物の姓が最上地方に見られることから、光氏とは義光三男の清水光氏(しみずあきうじ)(義親(よしちか)、氏満(うじみつ)とも)であろう。慶長(けいちょう)8年(1603)、最上義光が愛宕神社再建後に納めたもので、義光治政下の歴史的史料としては唯一のものである。

 光氏は竿柱奉納と同年の8月15日、清水(しみず)(現大蔵村清水)本社八幡宮宝殿に金燈籠を奉納している。

 

慶長八年棟札及び寛文十二年棟札

 

所在地 大字北目

所有者 愛宕神社

概要 慶長(けいちょう)八年棟札  寛文(かんぶん)十二年棟札

 高さ 中央部71.2㎝         高さ 中央部 107.7㎝

 左 68㎝ 右 67.6㎝         左 106㎝ 右 106.7㎝

 幅 上・下部 17.8㎝                幅(上)17.8㎝(下)16㎝

製作年代 江戸時代

指定の区分 市指定有形文化財

 愛宕神社建立についての確実な史料は、現存する「慶長八年」及び「寛文十二年」二枚の棟札のみである。慶長8年(1603)棟札表面には、「奉造立愛宕殿御社従都奉勧請以後第二度目也」「于時慶長八年太歳癸卯菊月(陰暦9月)吉祥日 別當山形宝幢寺住侶宥雄」などと記され、裏面には「君臣和合」の文字が見られる。寶幢寺(ほうどうじ)19代宥雄(ゆうゆう)(〔不明―慶長19年〕代で、愛宕殿御社(愛宕神社)が二度目の建立であったことが確認できる。さらに約70年後の寛文12年(1672)棟札には、「奉修理愛宕岩勝軍地蔵御寶殿御社第二度目御建立以後 星霜至于今七十年也」「于時寛文第十二年太歳壬子二月大吉曜宿日 別當最上郡山形寳幢寺住持法印亮辯」などとあり、慶長8年造立から70年が経過し、寳幢寺24代亮辯(りょうべん)(〔寛文元年―元禄11年〕)代に修理を行ったことが記されている。最上義光の名前が記された慶長棟札で、今日まで伝えられるものは他に存在しない可能性が高い。

 また、寛文棟札からは、慶長時建立の愛宕神社が改修されたことが確認される。寛文13年(1673)銘の「擬宝珠(ぎぼし)」が本殿階段に見られ、愛宕神社内に寛文改修時に関係する遺宝が見られる。

 二枚の棟札は、江戸時代初期及び前期の愛宕神社建立の歴史を伝える史料といえる。

          

慶長8年棟札  寛文12年棟札

佛向寺の板碑と石仏

 

所在地 小路 

所有者 佛向寺

概要 2基

製作年代 鎌倉時代

指定の区分 市指定有形文化財

 天童に残る最も古い板碑と石仏は、佛向寺境内前向かって左側にある。造立年代や志趣銘(ししゅめい)等はみえないが、共に山寺産の凝灰岩で鎌倉時代のものと推定される。

 板碑は、頭頂部山型をなし、額部高さ60㎝、額部突起6㎝、胴身高さ186㎝、幅上部67㎝、下部98㎝、厚さ中央41㎝で、胎蔵界大日如来(たいぞうかいだいにちにょらい)の梵字(ぼんじ)(アーンク)が雄渾(ゆうこん)壮重の筆致で彫られている。

 石仏もまた素朴であるが、舟形光背(ふながたこうはい)の石に陽刻(ようこく)した類例のない石仏で、聖観音像(しょうかんのんぞう)に声聞(しょうもん)型の小石仏が前に並んで立っていると推定される。2基とも佛向寺北隣にある大日堂関係のものと思われるが、佛向寺が成生より移築されたといわれている以前に、すでに存在したものと推定される。

 

石佛寺の石仏群

所在地 大字高擶

所有者 石佛寺

概要 7体

製作年代 鎌倉時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 石佛寺は弘安(こうあん)年間(1278~87)に一向俊聖(いっこうしゅんじょう)の開基と伝えられる寺院で、もとは山寺街道にそった今の国道13号線の東にあった。そこは「真砂井(まさごい)」といわれ、板碑(いたび)や石塔片が残っている。石佛寺以前にこの地が「最上郡府中庄外郷石仏」と呼ばれていたことは、横浜清澄寺(せいちょうじ)などの阿弥陀如来光背銘(あみだにょらいこうはいめい)より明らかである。したがって、弘安以前からこの石仏群は存在したものと考えられる。

 高さ1・32mから1・65mで、いま5体並び置かれているが、1基のみ旧石佛寺跡に安置されている。凝灰岩製で、いずれも舟形光背(ふながたこうはい)に丸彫りに近い厚肉式に彫られ、風化がすすみかなり損傷している。むかって右端から1番目は合掌する菩薩型立像、2番目はもっとも大きく地蔵菩薩(ぼさつ)と思われ、背後に声聞(しょうもん)型の挿入仏がある。3番目は定印(じょういん)の阿弥陀像(あみだぞう)でもっともよく原型をとどめている。4番目は右手施無畏印(せむいいん)、左手宝珠(ほうじゅ)をもつ地蔵菩薩、5番目は合掌する立像であるが像容は不明である。旧石佛寺のものは小型で大きな持物(じもつ)をもつ菩薩像で垂髪(すいはつ)がある。

 このような一石一尊の、土中に植え込み安置する形式の石仏は県内に類例がとぼしいのみならず、鎌倉時代の石仏として貴重である。

 

清池の六面幢 

 

所在地 大字清池

所有者 天童市

概要 幢身245㎝ 笠石径181㎝

製作年代 室町時代

指定の区分 市指定有形文化財

 山形市山寺から流れ下る立谷川の右岸、山寺から清池、高擶、寺津を結ぶ街道沿いに、「清池の大日板碑(だいにちいたび)」とともに建つ。本六面幢付近は字笠仏(かさぼとけ)と呼ばれており、近くには、永正年間(1504~21)に建立されたと伝えられる永源寺(ようげんじ)(現大字高擶)があった。

 幢(どう)とは仏堂に飾る旗を意味するが、村境など往来の要衝に目印として石造の六角柱のものが建てられるようになる。この地は立谷川河原地であり、また旧清池集落西外れであったと思われる。このような境界の地は葬送の場であり、疫病(えきびょう)が侵入する場所でもあった。本六面幢は疫病の侵入を防ぐ役割を果たすカミとして建立された可能性があろう。「清池の大日板碑」と同じ凝灰岩製で上部に穿孔(せんこう)がある。穴には地蔵が納められていたようだ。境の地は賽(さい)の河原の信仰と結びつく。六面幢上部の六地蔵は賽の河原に立つ六地蔵信仰を表している。

 

清池の大日板碑

 

所在地 大字清池

所有者 天童市

概要 高さ269㎝ 幅上部94㎝  基部105㎝

製作年代 室町時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 山寺から西流する立谷川右岸に平行して走る古道近く、「清池(しょうげ)の六面幢」の側に本板碑が建っており、「清池の六面幢」と同じ凝灰岩製である。古道は東に進み中世の大道(だいどう)(横街道)と交差する。本板碑の東には藤段稲荷が、西方には、村山地方に浄土真宗を広めた願正坊の廟や清池八幡が見られる。古道は、山寺から清池、高擶、中山町長崎を結ぶ道だった。本板碑が建つところには永正年間(1504~21)に建立されたと伝えられる、永源寺(ようげんじ)(現大字高擶)があった。

 碑面中央には大きく薬研彫の梵字(ぼんじ)(バン 金剛界大日如来)が見られる。この場所は山寺立石寺境内にある日枝(ひえ)神社21社下7社の1社、「大宮竈殿(おおみやそうでん)」のあったところと伝えられる。近くには山王(さんのう)の地名が残ることから、立石寺の勢力圏はこの辺まであったことがうかがえる。

 「清池の大日板碑」とともに、旧清池集落の村境に建ち境のカミとしての役割を果たしていたと思われる。

 

多宝仏塔(東漸寺跡の宝塔)

 

所在地 大字貫津

所有者 個人蔵

概要 高さ142㎝

製作年代 平安時代末期

指定の区分 市指定有形文化財

 上貫津からジャガラモガラへむかう田井山林道のむかって左手高台に「東漸寺跡」がある。今は一間四方の小さな観音堂が立っているが、その境内に石造宝塔がある。相輪(そうりん)をのぞいては基礎・塔身・屋根・露盤(ろばん)とも一石より刻み出され、凝灰岩製で風化による破損が著しい。相輪は上部が失われ2つに折れている。

 塔身は平面円形、柱垂(ちゅうすい)形で首部にむかってややすぼまる。釈迦(しゃか)・多宝如来(たほうにょらい)の二仏併座をあらわす龕部(がんぶ)が長方形に表裏2か所くりぬかれ、基礎にむかって2段の階段が刻みこまれている。

 屋根は四隅を欠き、緑の部分も欠けているが、軒の棰(たるき)が刻み出されていた痕跡をうかがうことができる。

 一石でつくられ、基壇(きだん)が低く屋根の勾配(こうばい)ゆるやかで、基礎に格狭間(こうざま)が刻まれており、平安時代末期の宝塔と推定されるが鎌倉期とみるむきもある。一説には、山寺立石寺にあったものが、ここに運びこまれたともいう。

 付近一帯からは、平安時代の土器片なども発見され、基壇や礎石の一部も残るので、平安時代に天台宗関係の寺院があったらしい。

 

徳正寺山門

 

所在地 大字奈良沢

所有者 徳正寺

製作年代 江戸時代中期

指定の区分 市指定有形文化財

 市内はもちろん、近郷に数少ない古建築の山門である。

 三間一戸(さんげんいっこ)、四脚門(しきゃくもん)形式の楼門(ろうもん)(2階建の門だが、下層に屋根がない)である。戸口は2.8m、屋根は萱葺(かやぶき)、入母屋造(いりもやづくり)、高欄(こうらん)の四隅に擬宝珠(ぎぼし)をのせ、釣り燈籠(どうろう)の痕跡として、その環(わ)が残っている。

 この山門は、天明(てんめい)3年(1783)、徳正寺門徒の若講中(わかこうちゅう)が寄進し、山寺立石寺南門を移築したものといわれるが、徳正寺に残る棟札から疑問が残っている。建築細工の面においては、中世的要素と近世的要素が溶け合った素朴な趣のある山門である。

 昭和38年(1963)に建立当初よりの萱葺屋根を亜鉛鉄板覆(おおい)とし、昭和59年(1984)に門扉(もんぴ)、回廊、高欄等の修復が行われた。

 

上荻野戸の板碑

 

所在地 大字上荻野戸

所有者 上荻野戸地域

概要 2基

製作年代 室町時代

指定の区分 市指定有形文化財

 山寺街道にそって上荻野戸の集落のなかに2基が北西に面して小さな堂の中に立っている。むかって右手の大きなものは高さ175㎝、幅63㎝、左手のものは高さ139㎝、幅62㎝。右手のものには碑面いっぱいに種子(しゅじ)の彫られた痕跡があり、愛染明王(あいぜんみょうおう)を表す「ウーン」といわれているが、なお検討の余地がある。左手のものは磨滅して種子は不明であるが、地元では庚申塔(こうしんとう)といっている。両者とも凝灰岩製で額部が突起して頂部にお椀をかぶせたような突起があり、「成生庄型」とよばれる板碑の典型的なものである。

 山寺の山王21社下7社のうちの「悪王子宮(あくおうじのみや)」と伝えられている。おそらく中世も後半の造立と推定される。

 上荻野戸字今野にも七基の板碑が倒れたまま残されている。もっとも大きなものは「寝仏(ねぼとけ)」ともいわれ、高さ2m程あり、阿弥陀如来をあらわす「キリーク」の種子が刻まれている。

 

荒谷の板碑群

 

所在地 大字荒谷

所有者 個人蔵

概要 6基

製作年代 室町時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 山形から山寺へむかう街道北側、北畠神社の西側畑地に、20mに11m、高さ2mの長方形をした土壇(どだん)がある。その上に南向きに6基の板碑が並び、中世の墓地か供養のための土壇がそのまま残っているように思われる。

 板碑群の中で頭頂部が突出し、額部に二条線を有する成生庄型が5基あり、種子(しゅじ)は不明である。

 中央に、地元で「子安(こやす)観音」「子安地蔵」と呼ばれている仏像を陽刻(ようこく)した板碑が1基ある。高さ150㎝、幅70㎝で、頭頂部はいわゆる山寺型といわれてきた板碑にみるように丸く、額下の碑面に定印(じょういん)を結ぶ阿弥陀如来坐像(あみだにょらいざぞう)を浮き彫りしている。磨滅して像容ははっきりしないが、像高67㎝である。像の肩がややさがり、力強さに欠ける点があり室町期のものであろう。

 これとよく類似した図像板碑が荒谷下にあり、「惣兵衛地蔵」と呼ばれているが、像容は阿弥陀坐像である。ここのものよりわずかに小さい。

 

 

北原の層塔

 

所在地 大字川原子

所有者 個人蔵

概要 高さ235㎝ 水輪径95㎝

製作年代 室町時代

指定の区分 市指定有形文化財

 この層塔は三重の層塔である。所在は北原の八幡神社の境内裏にあり、豪壮な風格で建っている。素材の凝灰岩は川原子横内の東方の石材で谷地中の鳥居と同質の凝灰岩である。工法についていえば、荒仕上げで基礎の石は前後不均等であり、正面76㎝、向かって右81㎝、向左82㎝、後部61㎝と前方が幅広く後方は前方に比して15㎝も狭い。また、その上の球型をなす初層の周囲は275㎝と大きく豪壮な感じを与える。塔初段の正面は96㎝、向右91㎝と各四辺協に寸法不同であり、3層中、一番大型で重厚である。全体として豪壮素朴な感じを受ける。中世後期の作と推定される。この地域の中世の層塔は、初層軸部が五輪塔の水輪のように球型をなすものが多い。

 

安楽寺山門

 

所在地 大字高擶

所有者 安楽寺

製作年代 江戸時代中期

指定の区分 市指定有形文化財

 安楽寺は、享徳(きょうとく)3年(1454)創建といわれ、戦国末期に現在地へ移転して以降、この村山地方の浄土宗寺院の中心的存在であった。

 この山門は、間口5.87m、奥行4.3mの三間一戸(さんげんいっこ)の八脚門(はっきゃくもん)式二重門(2階建の門で、上重・下重ともに屋根がある)で、2階樓上(ろうじょう)に本尊と十六羅漢像を祀(まつ)る仏間があった。高欄(こうらん)つきの回縁四隅に擬宝珠(ぎぼし)を備え、釣り燈籠(どうろう)の痕跡もみえる。

 同寺蔵文書から、享保(きょうほう)15年(1730)、18世良照上人の発願で起工、元文(げんぶん)3年(1738)5月、19世良三上人の代に完成、矢野目の松田権七が木材寄進、工匠は小国(現最上町)の大沼三郎兵衛光久であったことがわかる。

 大正11年(1922)に萱葺(かやぶき)屋根を亜鉛鉄板葺に改造、平成8年(1996)にも柱や桁の一部、2階部分の高欄・宝珠・板戸・障子壁等補修が加えられた。

 江戸中期の建築様式を今に伝える近郷に数少ない山門として貴重である。

 

紙本墨画寒山拾得図  伝 可翁宗然 筆

 

所有者 個人蔵

概要 双幅 縦55㎝ 横29.5㎝

製作年代 南北朝~室町時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 禅機に富む逸話で知られる寒山と拾得を描いた水墨画である。2人はともに中国唐時代の豊干(ぶかん)禅師の門下で、寒山は山中の寒巌幽窟(かんがんゆうくつ)に住み、拾得は豊干に拾われたことから名づけられたという。実在したかどうかは不明だが、寒山は文殊菩薩(もんじゅぼさつ)、拾得は普賢菩薩(ふげんぼさつ)の化身とされ、それぞれ経巻(きょうかん)と箒(ほうき)を持つ姿で描かれる。本図の場合、寒山は経巻を持たずに右手で月を指している。

 わが国で水墨画が興隆したのは鎌倉時代末期から南北朝時代であり、画家として良全、黙庵、可翁らが知られる。この作品も人物像の脇に「可翁」の朱文方印がみられるが、賛者である大徳寺第83世の以天宗清(1472~1554)と可翁の間には200年ほどの隔たりがあり、画の成立に謎が残る。桐箱の蓋表には「拾徳 寒山 小田原早雲寺開山 以天宗清毫 貮幅対」の墨文字が判読できる。「拾徳」は拾得のあて字。箱書に可翁の名はなく、水墨画の様式も室町時代後期のものと類似していることなどから、本図は以天宗清が自ら絵を描いて讃(さん)を付した自画讃とも考えられる。今後の研究がまたれる。

 

 

絵馬舎人曳駒之図(紙本着色神馬図)  最上家信 筆

 

所在地 大字北目

所有者 愛宕神社

概要 一幅 縦188㎝ 横212㎝

製作年代 江戸時代初期

指定の区分 市指定有形文化財

 

 躍動する神馬を神人(じにん)が制御する姿を雄勁(ゆうけい)な筆致で描いている。画題と構図は若松寺の重要文化財「板絵着色神馬図」とほぼ一致しており、影響関係がうかがわれる。本作品の場合、馬の毛に斑文様があり、首を下に向けている点が異なっている。画面の損傷が甚だしいうえに、馬の鞍および神人の脇差の柄と鞘に胡紛の盛り上げが見られることから、額装から軸装に仕立て直したと考えられる。神人の上部に「奉納/馬形/一疋/為諸願/成就/(欠失)/九月二十四日家信」と墨書で記されている。家信は最上義俊の前名で、最上義光の孫にあたる。本図が伝わる愛宕神社は天童城を落城させた義光が、守護神として建立したものである。また、江戸で生まれ育ち、元和(げんな)3年(1617)にわずか12歳で家督を相続した家信は、領内各地の神社を再興している。山形市の日枝(ひえ)神社には同じく家信筆の「猿曳馬図」(元和6年申年奉納)が残されており、それに比べて極めて巨大な本図は、最初の国入りの年であり、午(うま)年でもある元和4年(1618)の奉納とする説がある。

 

絹本淡彩東都上野霧中之花図 東都上野不忍雨中之花図  歌川広重 筆

 

所在地 一日町

所有者 公益財団法人 出羽桜美術館

概要 双幅 縦74.1㎝ 横25.6㎝

製作年代 江戸時代後期

指定の区分 市指定有形文化財

 

 江戸上野にある不忍池(しのばずのいけ)の春雨に霞む景、一方、模糊(もこ)と霧に煙る上野寛永寺境内の景である。自然を常に静寂な情緒の中に描こうとした広重の得意のものである。特に雨景を肉筆で描くことは極めて困難であるが、その困難さを克服して、その情感を心憎いまでとらえている。霧の中の朱色の廻廊(かいろう)、桜の薄紅色と淡い墨色との諧調(かいちょう)、また、不忍池畔の長い雨足の表現、軽妙な人物など出色の作といえよう。

 「立斎」の墨書款記あり、側に金泥(きんでい)で題名が付されている。箱書に「于時嘉永四亥とし極月御領主様より拝領」と記されており、嘉永(かえい)4年(1851)12月に下賜(かし)されたことがわかる。

 

 

絹本淡彩武金沢雀ヶ浦図 武金沢飛石山図  歌川広重 筆

 

所有者 個人蔵

概要 双幅 縦74.1㎝ 横25.6㎝

製作年代 江戸時代後期

指定の区分 市指定有形文化財

 

 

 広重は晩年、神奈川の金沢八景に遊び、同地の月夜の風景に心ひかれて、名作「武陽金沢八勝夜景」を発表した。この作品もその旅行の折のスケッチによるものであろう。遠い飛石山とそれにつづく連山の表現は巧みで、一方、雀ヶ浦の〝巾着岩(きんちゃくいわ)〟と呼ばれた奇石の表現も印象的である。横に広がる風景を縦長の画面に工夫した鳥瞰(ちょうかん)図的構図、遠近感の表現と相まって、広重の面目躍如たるものを感じる。

 「立斎」の墨書款記あり、側に金泥(きんでい)で題名が付されている。

 

   

柳鴉之図(紙本墨画雨烏図)  郷目貞繁 筆

 

所在地 大字寺津

所有者 法体寺

概要 縦111.5㎝ 横37.2㎝

製作年代 室町時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 

 雨に濡れそぼる一羽の鴉。その冷たさに負けることなく、身を震わせて雨粒を振り払い、毅然として立ちつくす烏の姿に生命の真実をみたのか、水墨画の画題として好まれてきた。

 描いたのは山形県の美術史上、画家として最初に名が登場する郷目貞繁である。郷目は寒河江(さがえ)城主大江氏の家臣であり、永正(えいしょう)17年(1520)に伊達軍との戦で捕虜となった記録が残っている。制作年のわかるものには、享禄(きょうろく)2年(1529)銘の「瀟相八景図(しょうそうはっけいず)」や永禄(えいろく)6年(1563)の年紀がある「神馬図」(若松寺、重要文化財)があり、郷目の活躍期はこの前後を含む約50年間と推定される。また、郷目の遺作には、細密描写による色彩画から枯淡な水墨画まで、多様な表現と画域の広さがみられ、京都で本格的な修業を経験したとも考えられている。

 本図を見ると、黒々とした強い筆致の鴉に対して、薄墨色による伸びやかで早い筆致の柳を巧みに配しており、初春の雨の情景が見事に表現されている。孤絶した鴉の凛とした存在感と相まって、郷目の到達した境地が示されている晩年の作と見ることができよう。落款はなく、画面左下に朱文の壺印が捺されている。本作品の指定名称は「柳鴉之図(りゅうあのず)」であるが、画のもつ情景内容から「雨烏図」とした。

 

絹本着色松平康邦像  歌川広重 筆

 

所在地 老野森

所有者 天童市美術館

概要 縦70.8㎝ 横28㎝

製作年代 江戸時代後期

指定の区分 市指定有形文化財

 

 

 松平康邦の画像は、裃(かみしも)を着た正装の姿である。やさしい目の温厚な顔立ちで、腰に脇差を帯した姿が、人柄をよく表現している。軸の巻止にある署名は田野文仲に間違いないと思われる。天童藩の4代目の医師であった文仲は、松平康邦の12男である敬次郎を幼少のとき養子に迎えて、康利と改名して5代目を継がせたのである。

 文仲は江戸にあった折に親交のある歌川広重に依頼して、康利の実父康邦の画像を描いてもらった。天保(てんぽう)10年(1839)のことである。その後、文仲は自分の画像も広重に依頼して、モデルになっている。嘉永(かえい)2年(1849)春、文仲61歳、歌川広重53歳であった。画面右下に「一立斎」の白文長方印と「広重」の朱文方印が捺されている。

 

絹本着色田野文仲像  歌川広重 筆

 

所在地 老野森

所有者 天童市美術館

概要 縦70.9㎝ 横28.2㎝

製作年代 江戸時代後期

指定の区分 市指定有形文化財

 

 田野文仲利和の画像は、黒地の衣服に黒の羽織を着た法体の姿である。羽織の紋は剣木瓜(けんもっこう)で、右手に扇子を持ち、大小の刀を置いてある。文仲の人柄を偲(しの)ばせる秀れた作品である。当時、天童藩は2万石の小藩であり、高畠より天童への移封で財政が逼迫(ひっぱく)したため、江戸で評判の歌川広重に肉筆画を依頼した。家臣の吉田専左衛門(文歌堂真名富)、木村宮之助(調歌堂真枝)が、東海道歌重の名を持つ広重の狂歌仲間といわれているが、田野文仲との親交も見逃すことができない。

 田野文仲の墓所が三寳寺(さんぽうじ)にあり、その曾孫(会田孝(あいたこう)氏)が、2画像を天童市に寄贈された。天童広重としての四条派的風景画と異なった、大和絵風の人物画で、技法的にも丹念に描かれており、広重肉筆画の資料として貴重である。画面左下に「一立斎」の白文長方印と松平康邦像とは異なる「広重」の朱文方印が捺されている。

 

絹本淡彩東都隅田川図 東都飛島山図  歌川広重 筆

 

所在地 一日町

所有者 公益財団法人 出羽桜美術館

概要 双幅 縦93.9㎝ 横32.9㎝

製作年代 江戸時代後期

指定の区分 市指定有形文化財

 

 江戸の桜の名所として知られた隅田川と飛鳥山を、左右に配して画面構成している。近景には桜と松の木を極端にクローズアップして描き、中景には主題の隅田川と飛鳥山、そして遠景に青筑波山と白く雪をかぶった富士山を望んでいる。こうした遠近と対比を生かした構図法は広重の得意とするところで、彼の連作錦絵として名高い「江戸名所百景」などにも多用され、フランスの印象派の画家たちに影響を与えたことでも知られている。

 ロンドンの大英博物館が所蔵する広重のスケッチ帖に、本作品の小下図が描かれており、〝天童広重〟の肉筆画制作のためにかなりの素描を準備していたことがうかがわれる。両幅とも落款は墨書で「立斎」、印章は朱文方印「広重」が捺され、側に金泥でそれぞれ「東都隅田川」と「東都飛鳥山」の画題が書かれている。

 

 

絹本淡彩吉野之櫻図 龍田川之紅葉図  歌川広重 筆

 

所在地 鎌田本町

所有者 広重美術館

概要 双幅 縦93.5㎝ 横32.9㎝

製作年代 江戸時代後期

指定の区分 市指定有形文化財

 

 

 万葉の時代から桜の名所として和歌に詠まれた吉野山と、古今集の「ちはやぶる神代も聞かず龍田川 からくれないに水くくるとは」で知られた紅葉の龍田川を画題としている。両図とも前景に川と筏(いかだ)が描かれており、左右画面の春と秋、桜と紅葉といった対比のなかに、水の流れという共通のモチーフを加えることによって不思議な一体感を生み出している。

 本作品も、大英博物館所蔵の広重スケッチ帖に小下図が描かれている。しかし、天童広重のほとんどの場合、画中に金泥または墨で画題が書かれているのに、本図には画題の表記がみられない。そのため、地元天童から流出して以後は天童広重として扱われなかった可能性があり、大正末年から所在不明になっていたが、近年に広重美術館の所蔵となって里帰りしたことは喜ばしい。両幅とも落款は墨書で「立斎」、印章は朱文方印「広重」が捺されている。

 

   

木造伝行基菩薩坐像

 

所在地 大字山元

所有者 若松寺

概要 像高  46㎝

製作年代 室町時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 行基は奈良時代、南都六宗(なんとろくしゅう)の僧侶である。和泉(いずみ)の人、百済(くだら)からの渡来人の子孫と伝えられる。諸国を巡り庶民に教化し、一時布教を禁止されたが、後、聖武天皇の廬舎那仏(るしゃなぶつ)造立に尽力し、日本最初の大僧正(だいそうじょう)に任ぜられた。

  山形県内の古刹(こさつ)の開基・開山は円仁とともに行基に関わるものが多い。行基開基伝承をもつ若松寺は、現在は天台宗であるが、旧正月7日の行事である「鬼やらい」は法相宗の影響も見られるといわれ、古くは法相宗(ほっそうしゅう)であったと思われる。

  本像は、手首から先が欠けており、退色の様子や胡粉(ごふん)の剥落など、像が祀(まつ)られていた環境が良くなかった時代があったようだ。尖った頭頂や容貌などに良源(りょうげん)(元三(がんざん)大師)の特徴が見られる。現在主尊が祀られていない元三大師堂の本尊だった可能性が高い。内刳(うちぐり)(像内の刳り抜き)のない一木造(いちぼくづくり)であること、浅い衣紋(えもん)の彫法など、木造僧形文殊菩薩像と共通するところも見られることから、同じ頃の制作年代と考えられる。

 

木造僧形文殊菩薩坐像

 

所在地 大字山元

所有者 若松寺

概要 像高 40.5㎝

製作年代 文明11年(1479)

指定の区分 市指定有形文化財

 

 

 文殊菩薩像は、行(ぎょう)を司る普賢菩薩像に対し、智を司る仏として信仰される。一般には獅子に乗る文殊像が多い。僧形文殊像は、主に天台系寺院の食堂(じきどう)の本尊として信仰されるが、その形態は中国唐の時代に始まり、日本でもその影響を受けるようになった。一般に老僧の姿で表されることが多いとされるが、本像は青年の姿であり必ずしも老僧とは限らないようである。ただ僧形神像と区別することが難しい。

  本像は食堂の本尊として祀(まつ)られていたことが背面に記されている。一木造(いちぼくづくり)で内刳(うちぐり)は施されていない。衣紋(えもん)の彫りは浅く目鼻立ちが整っている。背面(はいめん)の墨書に、「文明十一年己亥六月一七日造畢 鈴立山若松寺食堂本尊 文殊菩薩尊像一躰 當座主賢海 當別當慶尊 願主貞慶 同良尊」とあり、文明(ぶんめい)11年(1479)に造られたことが明らかである。

 

木造不動明王立像

 

所在地 大字山元

所有者 若松寺

概要 像高  36.4㎝

製作年代 鎌倉時代後期

指定の区分 市指定有形文化財

 

  不動明王は、平安時代、空海が中国(唐代)から請来したと伝えられる。大日如来(だいにちにょらい)の化身ともされ、密教(みっきょう)を代表する仏として、また五大明王の主尊として盛んに信仰された。

  形態は、独特の髪形をとり、憤怒形(ふんぬぎょう)で、右手には剣を左手には索(さく)を持つ姿が多い。面相は、髪は総髪で顔の横に垂れて弁髪(べんぱつ)とする。両眼は開き、口もとは上唇で下唇を噛み、正面を見据えるものが一般的である。後に、髪を巻毛とし左目を閉じ、右下の牙と左上の牙をむきだすものが多く見られるようになった。

  本像は寄木造(よせぎづくり)で、後代補修の跡がみられ、彩色は江戸時代に行われている。火焔光背(かえんこうはい)の傷みが激しく、台座の須弥座(しゅみざ)・岩座ともに後補である。頭部に大き目の蓮華をいただき、髪は巻髪にして顔の左側に垂れて弁髪にしている。正面を見据え、上唇で下唇を噛み上の牙と下の牙を左右に出す。腰を多少右にひねり、ふくよかな姿で、全体に鎌倉期の写実的な雰囲気がうかがえるとされていた。近年の調査では、体躯のバランスが不均衡であること、誇張(こちょう)した表現が見られるところがあるなど、江戸時代制作との見解が出ている。

 

木造狛犬(一対)

 

所在地 大字山元

所有者 若松寺

概要 阿形 65.4㎝ 吽形 61.5㎝

製作年代 阿形 鎌倉時代 吽形 室町時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 狛犬は獅子と同一であり、起源は古代のオリエント(エジプト・メソポタミア)までさかのぼる。その姿は、百獣の王・ライオンをもとに創り出された霊獣とされる。獅子は中国を経て日本に伝わり、後に、口を開いた阿形(あぎょう)の獅子(狛犬)と、口を閉じた吽形(うんぎょう)の獅子(狛犬)が一対で祀(まつ)られるようになっていく。もともと玉座を守護するものであった。

 狛犬が日本に登場するのは平安時代初頭で、頭上の角が特徴的である。獅子は阿形、吽形像ともに頭上に角がないのに対し、狛犬である吽形像の頭上には角があることで区別されるが、必ずしも固定したものではなかったようだ。

 本像について近年の調査から、阿形は、胸の張りや巻毛の強いたてがみ、胴体部のしなやかさなどに鎌倉期の作風が見られるが、頭部特に顔の部分、四肢や尻尾などは後補(こうほ)と考えられている。また吽形は、阿形にくらべ力強さに欠け、たてがみや胴体部の造りが単調である。阿形を模して造像されたと考えられ、制作年代は室町時代に下るとされる。

 本狛犬は、元来は単体で造られ、後に阿吽の像として一対で祀るようになったことが考えられよう。

 

銅造阿弥陀如来立像

 

所在地 大字山元

所有者 本寿院

概要 像高  31.7㎝

製作年代 鎌倉時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 日本で阿弥陀信仰が盛んになるのは、10世紀中頃から後期にかけて、市聖・空也(いちのひじり・くうや)による念仏説法や、源信(げんしん)の著書『往生要集(おうじょうようしゅう)』によって、地獄・極楽の世界が明らかにされた頃からである。永承(えいしょう)7年(1052)、末法の世到来への恐れは、時の社会不安も重なって人々を浄土信仰へと駆り立てていった。西方極楽浄土往生(さいほうごくらくじょうどおうじょう)への願いは、極楽浄土から人間社会へ来迎(らいごう)する阿弥陀像や来迎図を制作させるようになった。

 本像は両手首を失っているが、来迎の印をとっていた可能性が高い。阿弥陀如来立像で、両手を前に出す形は、福岡県久留米市無量寺像(鎌倉時代)、大分県豊後高田市天念寺旧像(平安時代)などが知られている。また、頭髪の正面は左回りの巻髪となっており、清涼寺式(せいりょうじしき)釈迦像の形式を採用したものと考えられる。上部の着衣姿が、快慶(かいけい)が当時もたらされた宋の仏画を手本に造ったとされる兵庫県小野市浄土寺の阿弥陀如来立像など、鎌倉時代のものと共通する。端正で写実的な姿など、慶派の流れを汲むと考えられている。

 

華光菩薩(木造伝弥勒菩薩)倚像

 

所在地 大字高木

所有者 泉福寺

概要 坐高62.6㎝  総高83㎝

製作年代 江戸時代前期

指定の区分 市指定有形文化財

 

 江戸時代、承応(じょうおう)3年(1654)に来日した明の隠元禅師(いんげんぜんじ)が、4代将軍家綱の信仰を得て京都府宇治市に黄檗山萬福寺(おうばくざんまんぷくじ)を建立した。臨済禅の流れを汲む黄檗禅が広まることとなった。この時に伽藍堂(がらんどう)守護神として関帝(かんてい)像や華光菩薩がもたらされた。仙台藩では4代藩主伊達綱村が、元禄(げんろく)10年(1697)に黄檗宗に帰依(きえ)し城下に大年寺(だいねんじ)を建立した。

 村山地方には江戸時代、黄檗宗寺院が広く存在したことが知られている。宝暦(ほうれき)11年(1761)の「高木村指出明細帳(さしだしめいさいちょう)」には黄檗宗の寺として、上州甘楽郡南牧(じょうしゅうかんらぐんなんもく)不動末寺良福寺(りょうふくじ)と、羽州村山郡高木村良福寺末庵慈眼庵(じげんあん)が載っている。

 本像は良福寺の廃寺により近くの泉福寺に移された。伝弥勒菩薩と伝えられてきたが、萬福寺伽藍堂(がらんどう)に祀(まつ)られる華光菩薩と同じであり、同像は大年寺のほか、廃寺となった寒河江(さがえ)市山岸黄檗宗梅龍寺(ばいりゅうじ)の同像が山岸毘沙門堂に祀られている。

 

木造徳本上人坐像

 

所在地 小路

所有者 佛向寺

概要 像高  84㎝

製作年代 江戸時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 徳本行者(宝暦(ほうれき)8年-文政(ぶんせい)元年〔1758-1818〕)は江戸時代後期の浄土宗の僧である。紀伊国(きいのくに)現和歌山県)日高(ひだか)郡出身、27歳で出家した。江戸近郊の農村を中心に念仏講を組織し、関東・北陸・近畿まで木喰行(もくじきぎょう)をおこない、念仏聖とも呼ばれた。「流行神(はやりがみ)」と称されるほどに熱狂的に支持され、諸大名からも崇敬を受けたという。徳本上人(とくほんしょうにん)の念仏は、木魚(もくぎょ)と鉦を激しくたたくという独特な念仏で、徳本念仏と呼ばれた。東京都文京区千石の一行院にある墓所は東京都指定旧跡となっている。

 本像は徳本の細身の体型や顔部の表情、後頭部のしわの表現などが特徴的であり、徳本の生前の姿を映した肖像(しょうぞう)彫刻と考えられる。徳本没後6年後の文政(ぶんせい)7年(1824)、江戸において制作された。徳本に深く帰依していた作者の野村源光(のむらげんこう)が、徳本の7回忌に制作したのだろう。徳本像の制作は少ない。本像胸部内側に、「文政七年甲申 秋九月 江戸 以神秘 野村源光 敬作」の墨書銘が見られる。制作者の野村源光は、江戸時代末期の四名匠(高橋宝山(鳳雲の兄)・髙橋鳳雲・松本良山・野村源光)の一人とされる。

 

伝勝軍地蔵菩薩像(木造地蔵菩薩坐像)

 

所在地 大字道満

所有者 新源寺

概要 像高  84.7㎝

製作年代 江戸時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 本像は元愛宕神社の宿院(しゅくいん)であった大輪寺(だいりんじ)に伝わったものである。貞享(じょうきょう)5年(1688)に寳幢寺(ほうどうじ)住職亮辯(りょうべん)時代、桐木(きりきの)に居住し京都七条仏所に所属する大佛師井関念正法印によって造立された。台座に、「貞享二二丁卯年御素木加持於 寶幢寺道場法印亮辯 勤修之貞享五戌辰年五月吉日 刻彫之功畢 山城京七条方桐木大佛師井関氏 念正法師彫之 羽州最上山形寶幢寺住侍 法印亮辯二世之願求之」、「奉刻彫地蔵大菩薩(以下の文字は併記)御素木榧木・御長座二尺五寸」との墨書が確認される。七条仏所については、仏師定朝(じょうちょう)やその一族、子弟が居住していた所と伝えられており、井関念正法印は定朝様式の流れを受け継いだ仏師であったと考えられる。

 本像の発願者である亮辮は寛文元年(1661)から元禄(げんろく)11年(1698)在職)まで愛宕神社の別当を務めた。『出羽国最上郡山形城東大黒山宝幢寺新彫刻本尊及弘法大師像記』に記されている「天童邑愛宕山大輪寺本堂地蔵菩薩金色坐像、(省略)貞享五年戊辰之秋新彫功竣」は、本像を指すものであると思われる。

 朝日町大谷の永林寺の山門には、元禄5年(1692)に京都の大仏師井関宗意及び同念性の2人によって制作された仁王尊像が見られるが、この仁王尊像は、本像の4年後に製作されていることから、井関念正と井関念性は、同一人物であろう。また、中山町個人宅に、台座に井関念性の名が記された阿弥陀如来座像(中山町指定有形文化財)が見られる。

 

桐唐草鳳凰文様唐織貼付竹筒(文書入れ筒)

 

所在地 大字成生

所有者 個人蔵

概要 口径8.5㎝ 長さ 40㎝

製作年代 室町時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 本筒は、「桐唐草鳳凰文様唐織貼付竹筒」と呼ぶことが望ましい。

 平糸(ひらいと)金(金箔を漆で鳥の子紙に貼り、貼った長さに切ったもの)と茶・青の色糸とで桐唐草鳳凰文様を織りだした金襴地(きんらんじ)の唐織(からおり)(多彩な美しい文様を織りだした絹の紋織物のこと)を、孟宗竹(もうそうちく)の筒に貼りつけている。孟宗竹の筒の内側の半分ほどに和紙が貼り付けてあり、筒の外側には書き古した和紙の貼り付けが確認できる。それに魚子地(ななこじ)(金属面を粟粒の突起状に並べたもの)蓬莱(ほうらい)(松竹梅、鶴亀、尉姥(じょううば)などのめでたいもの)文様を毛彫りし、金メッキした帯金具(おびかなぐ)で周りを締め、さらに蔓草文様(つるくさもんよう)の金環(きんかん)で3か所を締めている。筒は両蓋(りょうふた)付きであり、蓋の中央には霊亀(れいき)の細工が施された紐通しの金環がついている。形態から、金環に紐を通し背中に結んで持ち歩いたものであろう。

 伝来した竜頭(りゅうず)神社(権現)別当黒田家によれば、成生(なりう)城主が天童に移る際、黒田家に下賜(かし)されたものといわれる。

 

袖無編衣(阿弥衣)

 

所在地 小路

所有者 佛向寺

概要 材質 麻 丈104㎝ 肩幅約59㎝ 

製作年代 鎌倉時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 編衣、縫い目無しの衣といわれている。袖無編衣は一向俊聖(いっこうしゅんじょう)が着したものと伝えられている。俊聖は、一向専修(せんじゅ)の行者として文永(ぶんえい)10年(1273)、衆生救済のため一所不住の諸国遊行に出立した。俊聖の教えに帰依するものたちにより時衆(じしゅう)一向派が形成されていく。俊聖は出雲(いずも)国(島根県)水尾宮(みずおみや)に詣で、東普円崇法師(とうしんえんすうほうし)より袖無編衣の法衣を賜ったと伝えられる。

 編衣は古く縄文時代までさかのぼる。アンギンはこの編衣の流れをくむ。新潟県魚沼市塩沢町出身の鈴木牧之(ぼくし)が記した『秋山紀行(あきやまきこう)』(文政(ぶんせい)11年 〔1828〕)や『北越雪譜(ほくえつせっぷ)』(天保(てんぽう)8年 〔1837〕)にはアンギンのことが記されている。

 袖無編衣の、アミゴロモの呼び名は、時宗の僧侶が着した阿弥衣からきたものと考えられる。阿弥衣は麻をむしろ編みにしたもので、時宗僧の法衣(ほうえ)として用いられた。時宗開祖一遍智真と同じ時代に生きた俊聖も同じ衣を着していたのだろう。

 なお、一遍智真ゆかりの寺である京都市山科区の歓喜光寺(かんぎこうじ)(六条道場)には、元亀(げんき)3年(1572)銘のある袖付阿弥衣が伝えられる。

 

鉦鼓(永仁三年三月日銘鉦鼓)

 

所在地 小路

所有者 佛向寺

概要 径 約28㎝  高さ 約5㎝ 

製作年代 永仁3年(1295)

指定の区分 市指定有形文化財

 

 鉦鼓は青銅製で円面の形をしている。撞木(しゅもく)で中央部を打ち、音を出す。雅楽(ががく)で用いられる鉦鼓に由来すると考えられる。胴部には、「義空菩薩 永仁三年三月日」と陰刻されている。永仁(えいにん)3年(1295)は、一向俊聖(いっこうしゅんじょう)が入滅したとされる弘安(こうあん)10年(1287)から8年後、蒙古襲来の文永(ぶんえい)・弘安の役があり世情が混乱していた頃であった。

 室町時代から江戸時代にかけて描かれた職人尽絵(しょくにんづくしえ)の『三十二番歌合(うたあわせ)』には、「かね敲(たたき)」が見られる。胸に鉦鼓を下げ丁字(ていじ)形の撞木で鉦をたたき、阿弥陀仏を唱える聖(ひじり)たちの姿である。この鉦を打つ姿は踊踊念仏(ゆやくねんぶつ)にも共通する。永仁年号の本鉦鼓は、鎌倉時代に念仏聖が用いた数少ない鉦鼓の一つといえよう。

 義空については、天童市大清水(おおしみず)の高野坊(こうやぼう)遺跡から、応長(おうちょう)元年(1311)の年号や、「一向義空 勧進上人 二十七回忌」などが墨書された礫が出土し、義空27回忌が遺跡近くの地で行われたことをうかがうことができる。

 

最上義光の書翰

 

所在地 大字山元

所有者 来吽院

概要 長さ95㎝ 幅15㎝

製作年代 江戸時代(慶長年間)

指定の区分 市指定有形文化財

 

 この書翰は戦国の武将山形城主最上義光が、山形付近を統一した後、庄内遠征中に、庄内より若松寺の別当来吽院へ与えた書状である。書翰の体裁は和紙に草体で走り書きした極めて難解な文章であるが、来吽院が義光の求めによっての祈禱(きとう)に対する感謝状である。義光に限らず戦国武将は戦勝祈願やその他について神社や修験者に加持祈禱を依頼するのは常の事であり、その願望が達せられると神仏に礼拝奉謝するのが通例であった。この文面から見て義光の庄内平定の宿意がほぼ達せられた時に送った感謝の書翰である。

 

吉田大八の遺墨

 

所在地 大字天童

所有者 護国神社

概要 縦205㎝ 横40㎝

製作年代 江戸時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 慶応(けいおう)4年(1868)に戊辰(ぼしん)戦争が起こり、奥羽鎮撫総督が任命されると天童藩主はその先導を命じられたが、藩主信学(のぶみち)は病気中であり、世子信敏(せいしのぶとし)は若年なので中老吉田大八守隆が先導代理に任ぜられた。

 明治元年(1868)4月、沢副総督軍を笹谷に迎え、天童に案内した。大八は平和裡(り)に時局収拾しようと努めたが、旧幕府軍の庄内藩は軍を村山に進め天童は兵火に焼かれた。その後、奥羽列藩同盟が結成されると弱小の天童藩も加盟をよぎなくされ、時代の荒波に翻弄された。庄内藩は大八の引渡しを強要し、賞金100両を懸けて捜索にあたった。累が藩や城下に及ぶのを憂いて大八は米沢藩の山形陣所に出て自ら縛についた。天童藩はやむなく死を賜わることとし、大八は明治元年6月18日天童の観月庵において、「我のみは涼しく聞くや蝉の聲」の辞世の句と、この七言絶句を残し割腹して果てたのである。遺墨には大義に生きる武士の真面目(しんめんもく)がうかがわれ、読む人に襟(えり)を正させるものがある。

 

大明神原出土の大刀 (第一号)

 

所在地 大字乱川

所有者 個人蔵

概要 全長73.2㎝

製作年代 奈良~平安時代前期

指定の区分 市指定有形文化財

 

 乱川の左岸、乱川の集落と道満の間はかつて原野であった。そのあたりに俗称「大明神原」と呼ばれるところがあり、いまの道満の春日神社があったところといわれる。

 その周辺から道満にかけて、古代刀が4振り出土している。そのうちこの大刀は、昭和13年(1938)4月、乱川字東浦の畑地から出土したもので、鉄鏃(てつぞく)と刀子(とうす)が発見された。大刀とともに鉄鏃10数本と刀子が現存する。

 大刀は全長73.2㎝、柄頭(つかがしら)は長方形を呈して、7世紀中葉から出現する方頭大刀(ほうとうのたち)の系譜をひき、鍔は柄元(つかもと)と鞘口(さやぐち)からその周辺をはみ出して角面取りを施した喰出鍔(はみだしつば)で、刀身から柄頭まで一連につくられている。刀身はやや外反気味であるところから、8世紀より9世紀代のものと思われ、律令制下の地方豪族が身につけていたものであろう。

 鉄鏃は細根系長茎形である。大刀・鏃(やじり)・刀子がともに出土したことは、木棺直葬(じきそう)などによる墳墓の副葬品であろうと推測される。

 

大明神原出土の大刀 (第二号)

 

所在地 大字道満

所有者 新源寺

概要 全長49㎝

製作年代 奈良時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 道満の乱川堤防上より出土したもので、いま新源寺に保管される。茎(なかご)の部分に柄(つか)が挿入されていたが、いまは失われている。

 刃の幅が広く、茎は刃側が深い不均等両関(りょうまち)である。そのことから7世紀後半以降の横刀(たち)であり、あるいは8世紀代奈良時代の所産かもしれない。

 拵(こしらえ)金具もよく残り、2か所に単脚足金具、鞘口(さやぐち)金具、喰出鍔(はみだしつば)が認められる。

 これも古墳の副葬品と考えられるが、昭和30年ごろ堤防上より出土したといわれている。このような刃幅の広い刀は、北日本からの出土例が多い。

 

異形土器

 

所在地 大字道満

所有者 個人蔵

概要 高さ7.8㎝ 口径7.9~11.6㎝

製作年代 縄文時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 小型の異形土器である。口唇(こうしん)は刻み目あり、両側に把手(とって)状の装飾があり、口縁に小さな半截竹管(はんさいちくかん)による列点が一列に並ぶ。その下の文様帯は、縄文後期の中葉にみられる平行沈線による磨消(すりけし)縄文によって構成され、下部は獣脚を模したと思われる低く外側に張り出す獣面四脚が付く。このような装飾が施された精製土器なのに内面に磨きがないことも異例である。色調は黄褐色で黒斑がない。縄文前期・中期・後期の文様が器面にみられる。両把手を端に横長の器形である。

 文様構成や装飾、整形技法において縄文土器としてはきわめて稀(まれ)な珍しい形であるところから、後世のものと考えられるむきもある。縄文期の各時期のいろいろな文様要素が組合せられ、中期といわれるが、疑問が多い。これとよく類似しているものに中国南部からインドシナ半島でみられる近世の小香炉がある。今後の調査、研究を俟(ま)つものである。

 

高野坊遺跡出土墨書礫

 

所在地 大字大清水

所有者 市教育委員会保管

概要 55点

製作年代 鎌倉時代

指定の区分 市指定有形文化財

 

 高野坊遺跡は、天童へ移転前の佛向寺があったと伝えられるところに近い。墨書礫は、平成8年(1996)と翌年の発掘調査によって発見された。遺構は失われていたが、方形の土坑の中に埋葬されたものだろうと考えられている。

 墨書礫は1字のものから、最多のものは40字余りに及ぶ、表面に「出羽國最上郡成生庄」、「(キリーク) 阿弥陀如来」一向義空 勧進上人 大願主行連 于時応長元暦(1321)」、裏面に「出羽 成生 二十七回忌」と記されたものから、鎌倉時代に記されたものであること、また出土地は成生庄であったことがうかがえる。一向義空は俊聖の私称菩薩号とされ、一向俊聖27回忌を迎え、この墨書礫を認めたと考えられている。一向俊聖(いっこうしゅんじょう)と一遍智真(いっぺんちしん)は同時代に遊行聖(ゆぎょうひじり)として生きたため、その人間像が重なる。「藤原入道」や「後藤和泉」などの礫石の人名は、一向派を支える有力者であったと考えられよう。

 佛向寺に伝わる永仁(えいにん)銘の「鉦鼓」や「袖無編衣(そでなしあみごろも)(阿弥衣(あみえ))」、墨書礫は、鎌倉中・後期、成生庄では時衆一向派の活動が盛んだったことを示す史料といえよう。

 

吉田大八像

 

所在地 大字天童

所有者 護国神社

概要 像高132㎝ 裾幅116㎝

製作年代 明治4年(1871)

指定の区分 市指定有形文化財

 

 吉田大八は慶応(けいおう)4年(1868)、奥羽鎮撫使先導名代(おううちんぶしせんどうみょうだい)としての役を務めるが、その後天童藩が奥羽越列藩同盟に加わったことにより、藩はやむなく死を賜ることとし、大八は同年6月自刃した。戊辰(ぼしん)戦争後、大八を顕彰する動きがあらわれていく。同年、大八は「素道軒(そどうけん)守隆」と称され、像は明治4年(1871)、天童五日町佐藤直正を施主とし、尾村安五郎・平五郎父子によって制作された。明治10年(1877)前半と思われる「天童町家並み図 五日町」に、平五郎の屋敷が「江戸屋 神保兵五郎」と出ている。平五郎は江戸浅草の生(いき)人形師であり、天童神保家の養子になり神保姓を名乗った。新庄祭りの山車人形師野川隆光(北山(ほくざん))の師でもあった。

 平五郎は、五日町佐藤伊兵衛家によってつくられた済生館が山形に移転した後、済生館病院長長谷川元良(げんりょう)の求めにより医学教育用として人体模型(紙塑人工体・キンストレーキ)を制作している。人体模型は明治10年(1877)、東京上野での第一回内国勧業博覧会に出品し、最高賞である龍紋賞(りゅうもんしょう)を受賞した。

 

原崎の鴨棲息沼

 

所在地 大字山口

所有者 原崎地域管理

指定の区分 市指定天然記念物

 

 原崎沼は、若松山から北西に延びる丘陵末端部、山口の原崎地内にあり、かんがい用のためにつくられた水面4.5haの人造湖である。

 この沼に、毎年210日から秋の彼岸にかけて、何万羽というカモ類が渡来し、翌春まで棲息する。これは、シベリア~アラスカ西部で春夏を過ごし、その間に繁殖して、越冬するために飛来したものである。

 原崎沼で、越冬するカモの種類はマガモ・カルガモ・コガモ・オナガガモ・ヒドリガモ・ミコアイサ等12種類で、またその数は、多いときには14、5万羽もいたことが記録されている。現在では、周辺の環境変化などにより、その数は減っているが、沼面を遊泳するカモの群は、実に見事なものである。これらのカモは、夕闇せまるころ、餌(えさ)を求めて方々に飛散する。その行動半径は北は秋田県仙北地方、南は新潟県まで及ぶという。そして、早朝ふたたび原崎沼に帰ってくる。江戸時代から昭和40年代まで「原崎カモ組合」では、この習性を利用して沼の高台周辺に網を張り、夕方飛び立つ時と翌朝帰来するカモを捕るという独特な捕獲法を行っていたが、現在では見ることができない。

 

薬師神社のケヤキ林

 

所在地 大字成生

所有者 薬師神社

指定の区分 市指定天然記念物

 

 成生小学校より南方に徒歩で約15分のところに、成生楯(たて)の四方守護神の一つとして、未申(ひつじさる)(南西)方向に祀(まつ)られたと伝えられている薬師神社がある。この境内は、見事なケヤキ林になっている。ケヤキの本数は13本で、いずれも第1級の巨木ばかり。枝を四方に大きく張って境内を覆(おお)う様は実に壮観である。

 最大の巨木は、社殿の左後方にあって、根周り9.7m、幹囲8.45m、樹齢800年以上といわれている老木である。南面はすでに朽ち、芯は空洞になっているが、堂々たる偉容は王者の風格を示しており、薬師神社の縁起の古さを物語っている。

 12本のケヤキの太さをあげると、幹囲5.72m、5.63m、5.60m、5.52m、5.40m、4.65m、4.55m、4.10m、3.08m、3.05m、3m、2.7mと、いずれもすべて1級品のケヤキだけである。その他の樹木としてはイタヤカエデとイチョウ、若干のスギがあるのみで、まさしく珍しいケヤキの純林になっている。

 

熊野神社の大ケヤキ

 

所在地 久野本

所有者 熊野神社

指定の区分 市指定天然記念物

 

 天童駅から旧国道13号線を北へ1.40㎞のところに熊野神社がある。その境内に根周り9.8m、幹回6.85m、樹高19.5mのケヤキの大木がある。

 地上7.5mのところで大枝が三方に分かれ、枝振りを東西約31m、南北約41mとのばして繁茂するその姿は実に壮観である。

 樹齢600年と推定されている老木である。道路に面した太い枝が切られたり、幹の北側の芯に腐朽が見られるが樹勢はまだまだ旺盛である。

 慶長(けいちょう)年間(1596~1615)に、羽州街道が開かれた。今の旧国道13号線である。そのころ、現在の市役所近辺の綿掛(わたかけ)にあった久野本の集落とその中道にあった熊野堂が、この地に移されたと伝えられている。その当時、この周辺一帯は豊かな自然におおわれていたといわれている。

 このケヤキは、その自然林の中の1本で、当時をしのぶ唯一の老樹として、貴重なものである。

 

建勲神社社叢

 

所在地 大字天童

所有者 建勲神社

指定の区分 市指定天然記念物

 

 織田信長を祀(まつ)る舞鶴山の建勲神社境内、4.95㎡の社叢は、頁岩(けつがん)の風化した土壌と日照時間関係がアカマツの成長に最適地とみえ、他に見られない見事なアカマツの美林となっている。樹齢200年以上で、幹囲2.5mの太さのものもある。その1本1本が個性的な枝振りをなして、美しい姿を見せている。樹勢もよく、木肌も美しい。

 これらアカマツの下には、市の花に指定されているレンゲツツジなどさまざまなツツジが植栽されていて立派なツツジ公園ができている。花の季節には色とりどりに咲く美しいツツジの花とアカマツの緑の中で、お茶会が催されるなど、桜まつりに続いて大きな賑わいを見せている。

 社叢の頂(いただき)に立つと、秀麗な月山、葉山、朝日の連峰がつらなり最上川が銀蛇に光る景観は、まことに佳境である。

 心配されるのは、全国的に猛威を振るっている松くい虫(マツノザイセンチュウ)による被害である。景観がそこなわれることなく松の緑の美しさが、いつまでもながく続くことを願いたい。

 

道満の三光ヒバ

 

所在地 大字道満

所有者 個人蔵

指定の区分 市指定天然記念物

 

 旧国道13号線の乱川手前、約50mから右折し、道満街道を通り、道満の東端にある春日神社の社家の庭園に根周り7.1m、幹囲5.9m、樹高28.5mの「三光ヒバ」と呼ばれるヒバの大木がある。

 地上2.5mのところで、それぞれ幹囲2.8mほどの南部、北東部、西部の三股に分かれ、その三幹が枝を振りながらそびえており、その姿は実に壮観である。

 「三光ヒバ」の名称も、このことから生まれたといわれている。

 老樹でありながら、樹勢が衰えず姿態の美しいヒバである。

 同家はその昔、成生庄と関わりがあり、村社春日神社の主宰者であるとともに、代々道満村の名主をつとめ、親方と呼ばれてきた。

 屋敷が広く、庭園も大きかったので、大樹が育つ好環境にあったものと思われる。

 

田麦野のかさまつ

 

所在地 大字田麦野

所有者 田麦野財産区

指定の区分 市指定天然記念物

 

 旧田麦野小学校跡より南々西の裏山へ徒歩で5分、旧村社、伊豆神社から50mほど離れた田麦野を見下ろす高台に、根周り4.32m、幹囲3.65m、樹高18.5mの見事なアカマツの巨木がある。地区民からは、「かさまつ」の名で呼ばれ、崇敬され保護を受けてきた。

 枝張り東西22.2m、南北22.1m、地上3.6mのところより幹囲1.92mの第一枝が西に根元まで垂れさがっている。

 この「かさまつ」は、県内最大級の太さを誇る老樹でありながら、樹形、樹勢ともによく、風雪に耐えて生きてきた年輪の重さをひしひしと感じさせる巨樹である。

 明治37年(1904)、当時の村長であった東海林源吉氏らが作成した「笠松の由来」という記録がある。それによると、30年間にわたる山林境界論争の勝訴記念に、「かさまつ」を「名誉の松」とも称し、その根元に八幡神社を建立し、村落の安全を祈念するとある。

 

臥龍山西常得寺の蟠形杉

 

所在地 大字蔵増

所有者 西常得寺

指定の区分 市指定天然記念物

 

 蔵増の臥龍山西常得寺の境内で、本堂の左側に実に見事な杉の大木がある。根周り9.23m、幹囲6.61m、樹高約20mで、市内最大の太さを誇る杉の巨木である。しかも、かわった特性の杉である。杉はもともと直径であるはずなのに、5~10mの高さで、多くの大枝が出て、その内の数本が本幹と並立した幹となって伸びている。さらに、それらの幹が、それぞれに枝を張って、鬱蒼(うっそう)と繁茂しているが、その姿は実に壮観であり、畏怖(いふ)の念を起させる。

 この老杉は、夕方天候の変わり目などに、よく木の上部が煙におおわれたように、かすんで見える事がある。これを昔の人は狐や狸の仕業と恐れ、「ばけすぎ」と呼んだといわれる。

 また、蟠形杉の名は、真直ぐに伸びるはずの杉が、幾本にも枝分かれして伸びあっている特殊な姿を、蛇がとぐろをまいているように見立てて、名付けられたものであるともいわれている。

 

八幡神社社叢

 

所在地 大字清池

所有者 八幡神社

指定の区分 市指定天然記念物

 

 高擶の清池地区に、鬱蒼(うっそう)と茂って一際目立つ杜(もり)がある。境内5091.9㎡の八幡神社社叢である。この社叢を構成している植物には、幹囲2.74、2.59、2.51mのスギの巨木群や八幡神社の御神木となっている3.74mのイチョウの巨木、そして、エノキ・コブシ・ケンポナシ・クヌギ・アベマキ・モミ・カシノキなどの数多くの高木があり、いずれも見事に育っている。なかでもコブシの高木郡は珍しい。また、アオキ・モミ・カシノキなどの低木や下草もよく育っている。

 八幡神社は、寛治(かんじ)6年(1092)、源義家の家臣相模の住人・鎌倉権五郎平景政の創建と伝えられる。本殿の裏側に、景政が目を射られて、その矢を抜き、目を洗ったとされる御手洗池(みたらいいけ)がある。

 境内は、神域としてよく保護・維持されてきたことから、多様な植物が豊富に、しかも昔の姿のままに保たれており、往時の原植生を知る上での極めて貴重な社叢である。

 

元諏訪神社のハルニレ群

 

所在地 大字芳賀

所有者 芳賀町内会

指定の区分 市指定天然記念物

 

 芳賀の元諏訪神社境内に、幹囲2.57、2.52、2.41、2.34mの4本のハルニレの大木群がある。これらは、樹木の様子から、自然に生えていたものと思われる。すでに、老木であるが、神社境内の樹木であることから、保護されて、残ってきたものである。

 ハルニレは、昔「タモ」と呼ばれ、火をこすり出す木として使われたり、その内皮で繊維を織るなどして、人と深く関わりを持ってきた。また、ハルニレの生息する場所は1等地とされ、開拓などするときの適不適を決める環境指標にもなってきた木であるといわれている。

 現在では、神社仏閣の境内に、わずかに残る、珍しい木になっている。このハルニレの大木群は、住時の自然環境を知る上でも、極めて貴重な植物である。

 この元諏訪神社のハルニレは、高擶(たかだま)の地名の語源になっている。現在の高擶の地名は、江戸時代から明治の初期にかけて、高楡(たかだも)となっている。住時、この地一帯に古代芳賀村落が散在していたといわれ、そこに、ハルニレの高木が鬱蒼(うっそう)と茂っていて、それが地名の源になったと思われる。

 

若松寺古参道沿いの樹叢

 

所在地 大字山元

所有者 若松寺

指定の区分 市指定天然記念物

 

 古参道沿いの樹叢とは、麓(ふもと)の洗心橋から若松寺観音堂に至るまでの、古参道沿いの並木として植栽された、現存する15本のスギと11本のケヤキの巨木のことである。古参道一帯はスギの生育には極めて適した環境にあり、いずれのスギも素性よく真っ直ぐ伸びて、老樹でありながら天を衝く勢いのものだけである。それに比べ11本のケヤキの巨木はいずれも捻じれて瘤(こぶ)があり、節だらけでケヤキ本来の姿で育っているものは1本もなく、古参道はケヤキが自生できる環境ではない。それだけに、古参道をスギとケヤキの並木に作り上げた先人の苦労と、それにこたえて逞(たくま)しく生えてきたケヤキの強靭(きょうじん)な生命力に圧倒される。古参道の中程のケヤキ並木に、文政(ぶんせい)7年(1824)に寄進されたといわれる80mの自然石の石段がある。石段はケヤキの根の上に作られているが、根により石段が持ち上げられたり、ずらされるという影響は一切受けていない。当時ケヤキはすでに現在の太さに成長し切っていたことを意味する。スギとケヤキ並木は若松寺の歴史と、古参道の歴史的景観を醸し出す貴重なものである。

 

田麦野のオオヤマザクラ

 

所在地 大字田麦野

所有者 田麦野財産区

指定の区分 市指定天然記念物

 

 田麦野の山に自生していた一際(ひときわ)花の美しいさくらを、地区内のどこからでも見ることができ、旧村社の伊豆神社境内に移し植えたものと思われる。地区民から種蒔(たねま)きザクラと呼ばれ親しまれてきた。旧田麦野小学校の校章にもなっていた。

 根周り3.7m、幹囲3.3mと県内随一の太さで、東北に傾斜(けいしゃ)しながら、四方に大きく枝を張って伸びている。その姿は北国の桜に相応しく、豪壮で逞(たくま)しく、何百年と風雪に耐えて生き抜いてきた姿が、如実に感じられる。

 オオヤマザクラは栃木県の日光と福島県の勿来(なこそ)の関を結ぶ線の北側だけにあり、日本の3名の植物学者から三様に命名されるなど極めて特色あるさくらである。奈良の吉野山や京都の嵐山などで知られる日本古来のヤマザクラより、花の形が大形であることから、明治41年(1908)牧野富太郎によってオオヤマザクラと命名された。また、北海道により多く見られることから、大正2年(1913)、小泉源一によってエゾヤマザクラと命名された。さらに、ヤマザクラより花の赤味が濃いことから、大正5年(1916)、三好学によってベニヤマザクラと命名される。

 

舞鶴山のエドヒガン

 

所在地 大字天童

所有者 天童市

指定の区分 市指定天然記念物

 

 舞鶴山の西斜面の中心部で一番よく目立つところに、根周り520㎝、幹回り322㎝の見事なエドヒガンの巨木がある。

 その花は、萼筒(がくとう)の基部が膨らんで、壺形になっていることからツボザクラとも呼ばれている。また、花は葉が出る前に、葉のないところで咲くので、ウバザクラとも呼ばれている。

 このエドヒガンは樹齢4~500年と推定されているが、爛漫と花の咲く様は実に壮観で、舞鶴山のシンボル的な存在である。このエドヒガンこそ、これを身近に眺めて育った山の持ち主で、側に別荘などもあった鈴木太助氏に、舞鶴山を全山さくらの山にしようと発想させてくれた原点の樹であり、天童市の天然記念物に指定されている。

 明治33年(1900)、東京で、成長が早くて、葉が出る前に爛漫と花の咲く、ソメイヨシノと名前の付けられた新しい桜が見つかった。それが明治34年(1901)、世界的に新種であることが分かり学名が付けられた。それを知った鈴木太助氏は、明治35年(1902)県内何処にもまだ桜のモデルが無かった時代に、いち早くその新しいソメイヨシノを2000株取り寄せて、舞鶴山に植栽してくれたのである。それが舞鶴山のさくらの始まりである。

 

水晶山の風穴群とハシドイの群落

 

所在地 大字川原子字水晶山

所有者 個人蔵

指定の区分 市指定天然記念物

 

 ハシドイは北方性の寒冷地植物で、氷河期に地球の寒冷化に伴い、日本列島を南下したと言われている。その後、氷河期が後退し、日本列島の温暖化が進むことによって、ほぼ絶滅してしまい、気候的かつ地形的に生存が許された、ごく一部の場所に限って生き残った極めて珍しい植物であると言われている。

 そのハシドイが、標高380mの水晶山の南西面の麓(ふもと)、荒井原(あらいはら)地区に通じる小川沿いの一角にある。この小川沿いには、約2300mの渓畔(けいはん)地帯があり、現在は樹齢60年の杉林になっているが、以前はハシドイの好む渓畔林であったことから、この地帯に日本列島を南下したハシドイが生育していたものと思われる。

 その後、日本列島の温暖化が進み、渓畔地帯のハシドイも絶滅の危機に瀕したが、この一角に冷気を吹き出す風穴が存在したことから風穴に巡り合った一部のハシドイが生き残ったものであった。この風穴の蘇生活動と、ハシドイの保護活動を長年に渡って行ってきた結果、現在見られるような貴重な「水晶山の風穴群とハシドイの群落」が見られるようになったものである。

 

寺津手人形芝居

 

所在地 大字寺津

所有者 寺津人形保存会

指定の区分 市指定無形民俗文化財

 

 手人形芝居は、近郷には蔵増(くらぞう)人形芝居を始め、久保手人形芝居(上山市)、山田木偶人形芝居(山形市)、山辺人形芝居(山辺町)、三吉(さんきち)〈面白(おもしろ)〉人形芝居(山辺町)、柴橋人形芝居(寒河江市)、溝延(みぞのべ)人形芝居(河北町)などがあった。

 寺津手人形芝居は明治の中頃、寺津の仲島喜五郎が養祖父以来伝わる人形遣いを、父忠次郎とともに仲島人形芝居の一座として結成したものという。 演目は「世話物(現代物)」、「時代物」、「滑稽(こっけい)物」、「怪談物」、「艶(つや)物(恋愛物)」などに分かれる。寺津手人形芝居の出し物として、「三番叟(さんばそう)」「南部坂(なんぶさか)雪のわかれ」「堀部安兵衛の婿入り」「岩見重太郎の猩々退治(しょうじょうたいじ)」「阿波の鳴門(あわのなると)」などがあった。

 手人形頭の製作者は、山形の渋江長四郎や新庄の野川隆光(北山)、江戸浅草出身と伝えられる神保平五郎などが知られる。

  一座は昭和28年(1953)を最後として姿を消したが、芝居を継承したいと、地元有志が寺津人形芝居保存会を結成した。

 

寺津手人形関係資料

 

所有者 天童市

指定の区分 市指定有形民俗文化財

 

 山形県内陸地方において、今日、興業としての手人形芝居は存在しない。山田木偶(でく)人形や山辺人形(山辺町山辺)の公演が時折、関係者によって行われる。人形芝居頭の多くは廃棄され、流出してしまった。まとまった数として地元に残るのは、山辺人形と寺津手人形だけであろう。

 寺津手人形頭は105体が確認される。その内7割強が、人形師渋江長四郎(2代目原舟堂友房(はらしゅうどうともふさ))、神保平五郎、野川隆光(りゅうこう)(北山(ほくざん))の作品といわれる。長四郎は和事(女形)、平五郎や北山は荒事(あらごと)(男形)の人形が多かった。人形師の手になる頭がこれだけ確認されるのは、他には山辺人形のみである。加えて、手や面、小道具、着物、舞台道具が見られる。その他、木戸札(裏に「大入叶」の文字)である大札(大人用)・小札(子供用)、台本(『南部坂雪の訣(わか)れ』3冊、『堀部安兵衛婿入談』1冊)ポスター用の版木、通券版木、拍子木などが残されている。

 頭の種別総量(105体) 立役(主役/男形)46体、立女形20体、三枚目15体、こども9体(内3番叟1体)、老人5体、その他10体(梨割2体、カブ4体、天狗1体、ヒヒ3体)

 *梨割…頭が2つに割れる。 カブ…顎落ち。

 

高擶夜行念佛

 

所在地 大字高擶

所有者 高擶夜行念佛講

指定の区分 市指定無形民俗文化財

 

 夜(行)念仏と呼ばれる念仏習俗は、すでに中世後期頃全国的に見られたもので夜念仏(よねぶつ)と呼ばれた。山形県内における夜念仏の信仰が江戸時代をさかのぼるかは不明である。庄内では羽黒山に詣(もう)でたことが知られている。

 村山地方に伝わる夜念仏信仰は山寺夜行念仏(やぎょうねんぶつ)をさす。旧暦7月6日から翌7日にかけて、現在は8月6日の夕方から7日早朝にかけて、山寺立石寺山内の寺院や旧蹟(きゅうせき)を、先祖供養、万物供養を目的に念仏を唱え回向(えこう)を上げる。旧暦7月7日、盆入り前夜に行われる盆行事の一つといえよう。高擶夜行念佛講中は笈摺(おいずり)を着け、笠をかぶり金剛杖(こんごうづえ)を持つ。講長は巻物を首に下げる。行列は、提灯持ち後に鉦打ち、講長、そして講員が続く。

 山寺夜行念仏の歴史については、村山地方の寺院に元禄時代の「夜念仏碑」や「鉦鼓(鉦打ち)」が見られることから、近世初頭には行われていたことがうかがえる。高擶夜行念佛講中は、享保(きょうほう)年中(1716-36)に再興されたことを伝える資料があることから、近世初頭には結成されていたと思われる。幾度かの中断があり、大正5年(1916)7月7日に再興され、以来今日まで続いている。

 

高擶夜行念佛講史資料

 

所在地 大字高擶

所有者 高擶夜行念佛講

指定の区分 市指定有形民俗文化財

 

 山寺夜行念仏は、文化庁から平成11年(1999)12月3日、記録作成を講ずべき無形の民俗文化財「山寺夜行念仏の習俗」として選択された。高擶夜行念佛講中は、山寺夜行念仏保存会(山形市)とともにこの念仏行事を続けている。

 高擶夜行念佛講史資料は高擶講中が所蔵する関係一括資料である。夜行念仏関係史資料は「夜念仏」・「夜行念仏」銘を刻んだ石塔以外、まとまった史資料として、寒河江市平塩にあった永(栄)蔵坊(えいぞうぼう)文書と高擶夜行念佛講史資料が見られるだけである

 高擶夜行念佛講は、江戸時代から、解散と再興を経ながら今日に至る。講中が所蔵する史資料47点のほとんどは明治以降のものだが、江戸時代の高擶夜行念佛講の活動を記したものや、山寺奥の院までの、堂舎や辻々などで上げた回向(えこう)をまとめた「夜行念佛回向帳」などが見られる。「布施帳」は多く残されている。特に、大正5年(1916)の再興時からの資料が多い。

 

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