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中川 イセ

北海道網走開拓の母 中川イセ


 中川イセは明治34年8月26日、東村山郡干布村(現天童市)上荻野戸に今野安蔵、サタの三女として生まれた。イセが生まれて2年後に母サタが他界したため、2歳になったイセは山寺村荒谷の佐藤栄七宅に里子に出されることになった。

 イセは佐藤家で小学校時代を過ごしたが、尋常科を修了すると、生家に戻され家業の手伝いをすることになった。しかし、継母との折り合いが悪く、生家を出ることになった。その後は、山形、米沢、東京と転々と職を変えながら苛酷な日々を過ごしていたが、17歳の時、女の子「愛子」を出産した。

 大正8年、愛子を里子に出したイセは、その養育費を稼ぐために北海道に渡り、2年後中川卓治と結婚した。しかし、中川家の反対もあって、イセは夫、夫の前妻の子と3人で樺太へ渡った。樺太では木材会社に勤め熱心に働いた。この二人の様子を知り、ついに中川家の勘当が解け、イセ達は網走に戻って中川牧場で働くことになった。 昭和22年に戦後初の統一地方選挙が実施された。中川イセは夫の勧めを受け網走市議会議員選挙に立候補し、初の女性議員として当選した。それから7期28年間議員として活躍した。この間、彼女は数多くの功績を残したが、中でも、水道の敷設は網走市民にとって大きな事業となった。昭和23年頃、網走市内の井戸水はアンモニアが強く飲料水としては適しないものであった。イセは、幾多の困難を乗り越え上水道の敷設に奔走し、ようやく実現させた。

 また、議員の傍ら家庭裁判所家事調停委員、網走婦人会長、人権擁護委員、母子相談員、社会教育委員、防犯協会理事、自民党道連婦人部長、福祉協会理事などとして活躍した。中川イセが90歳になった平成4年、網走市議会は中川イセを名誉市民に決定した。100歳を超えても社会福祉法人網走愛育会理事長、学校法人網走学園理事、(財)網走監獄保存財団名誉理事長などとして活躍していたが、平成19年1月1日、105歳の生涯を閉じた。

 参考 「天童市が生んだ人物」 平成14年旧東村山郡役所資料館発刊

 

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