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宮城 浩蔵

明治の法律学者 宮城浩蔵


 宮城浩蔵は嘉永5年(1852年)天童織田藩御典医武田玄々(直道)の次男として誕生した。13才の時に天童織田藩重臣宮城家の養子となり、宮城家を継ぐことになった。
  
 慶応4年吉田大八の麾下として戊辰の役に参画したがその後、酒田に出てイギリス式の兵法を学び、翌々年箕作麟祥の共学社に入塾しフランス学を学んだ。また、天童藩の貢進生として岸本辰雄らと大学南校に入学したが翌年、貢進生制度が廃止されると、司法省明法寮に転校し引き続き法律学を学んだ。

 明治9年にフランス人教師ボアソナードの推薦により宮城ら3人がパリ大学に留学した。宮城はさらにリヨン大学で法律学のほか政治学を修め、フランス法律学士の学位を得、明治13年帰国した。

 帰国後、宮城浩蔵は岸本辰雄、矢代操と共に明治法律学校(現明治大学)を創設し教頭として日本刑法、治罪法の指導にあたった。また、法律取調報告委員に任ぜられ民法、商法、民事訴訟法の草案作成に参与したほか、「刑法講義」「刑法正義」を出版し、明治の法律学の中心人物として活躍した。

 明治23年に第一回衆議院議員選挙が行われるや、山形にもどって立候補し第一位で初当選した。宮城は議員活動をしながら代言人の免許を受け、東京新組合代言人会長になり、起草委員として刑法改正の任にあたった。

 明治25年再び衆議院議員選挙で当選したが、翌26年2月腸チフスにより逝去した。(享年40才であった)

 尚、山形市にある千歳公園に「宮城浩蔵顕彰碑」が建てられている。この碑の篆額は西園寺公望の筆に、碑文は中江篤介(兆民)の撰によるものである。

 

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