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重野 謙次郎

自由民権運動の先駆者 重野謙次郎


重野謙次郎は安政元年(1854年)天童藩士重野謙次郎正和の次男として生まれた。父謙次郎正和は藩の奉行役として幕末の混乱期に活躍した。慶応4年(1868年)に吉田大八が奥羽鎮撫使先導の代理をつとめた際に、吉田大八のもとで働いた。

 明治5年に父謙次郎正和が病死した後、次男である謙次郎が父の跡を継いで襲名した。謙次郎は幼少の頃から秀才の誉れが高く、藩校養正館に入学したが、明治2年(1869年)選ばれて東京での遊学を命ぜられ、川崎也魯斎について漢学を修めた。その後いったん帰郷し家督を継いだが、明治6年再び上京し講学社でフランス法学を学んだ。

 謙次郎は明治10年に代言人試験に合格し、13年に帰郷し山形市で弁護士を開業した。また、弁護士として活躍しながら若い青年等に法律を指導し、自由民権の思想を普及するために同志を集め「法律学社」を創設した。

 当時中央においては、板垣退助が政治結社「自由党」をつくり、大隈重信は「改進党」を結成し自由民権運動は大いに盛り上がっていった。

 謙次郎は明治14年に法律学社を解散し、新たに政治結社「東英社」を結成し政治運動の色彩を強めていった。東英社は板垣退助の自由党系に属し積極的、活動的、急進的であった。これに対し、当時の地主層が中心となって政治結社「特振社」が結成され、その中心になったのは佐藤里治らであり、漸進的穏健な立憲主義派で大隈重信の改進党の流れをくむものであった。

 明治14年に謙次郎は県議会議員に当選、明治22年市町村制の施行に伴い、第1回山形市議会議員に当選し、初代市議会議長に選出された。続いて、明治23年第1回衆議院議員選挙に自由党として山形1区から立候補したが、改進党の宮城浩蔵、佐藤里治に敗れ落選した。その後県議会議員に再度当選し議長として県の政界で活躍した。

 明治25年の衆議院議員選挙に再度立候補したが、再び宮城等に敗れ、翌26年宮城浩蔵の病死に伴う補欠選挙で初当選し、以来5期衆議院議員自由党政治家として中央政界で活躍した。

 重野謙次郎は明治35年までの10年間政界で活躍したが、その後東京に移り住んでから政界を引退し、弁護士として生涯を送り、昭和5年11月8日77才で亡くなった。

 

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