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高橋 英雄(えいお)

奉仕活動に尽くした「はなかみ先生」 高橋 英雄(えいお)


 はなかみ先生(高橋英雄)は明治10年8月15日天童織田藩の御殿医であった高橋正庵の孫として生まれた。英雄は天童学校を卒業後、仙台にある陸軍幼年学校に入学したが、中退し横浜に出た。

 横浜にでた英雄は、郵便局や貿易商のもとで働き、そこでたくさんの外国人と接し、世界の国々の情報を得ることができた。なかでも、アメリカは世界の中でも最も文明が開けていることを知り、ぜひ自分もアメリカに行って勉強したいという気持ちが高まっていった。

 21才の時、渡航費用を持たない英雄はアメリカ行きの貨物船にこっそり乗り込んだ。もちろん船員に見つけられ問責を受けたが、アメリカで学びたいという英雄の強い情熱を知り、船長はアメリカの地に無事渡してくれた。

 アメリカに上陸した英雄は、船長の厚意でアメリカ人の家庭に使用人として住み込み、ホテルで皿洗い、便所掃除、ガラス磨き、また、農家に出向いては日雇いなど、簡易な賃金労働に打ち込んだ。また、時間的、経済的な余裕を見付けては、かねてからの願いであった学問にも熱心に取り組んだ。美術関係の夜学校に入学し、昼は小使い、夜は夜警の仕事をしながら英語、絵画、音楽など様々なことに挑戦した。

 アメリカで24年間過ごした英雄は大正11年(1922年)帰国しふるさと天童に戻った。英雄が44才の時であった。天童に帰った英雄は、間借りの生活をしながらアメリカで学んだことを天童の人々の生活に生かしていこうとした。当時の人々の生活や文化の程度は全く遅れており、英雄にとってやるべき事があまりにも多かった。特に、当時の天童やその周辺の子供たちの中には鼻をかむという習慣が定着していなかった。英雄は毎日のように天童を中心に各村々を回り、子供たちに紙切れを渡し鼻をかむ事の大事さを語って歩いた。

 最初は、英語の歌を口づさみ旗を持って毎日のように村を回ってくる英雄を、変人のようにみていた人々も次第に感化を受け、英雄を見る目や接し方も変わっていった。このような英雄をいつの頃からか人々は「はなかみ先生」と呼ぶようになった。

 英雄はその他にも、舞鶴山にツツジを植えたり、散策道を作ったり、倉津川の清掃に取り組むなど、一人でいろいろな奉仕活動に終生取り組み、昭和34年5月5日82才の生涯を閉じた。

 

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