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本沢 竹雲

私塾「格知学舎」の創設者 本沢竹雲


 本沢竹雲は天保7年(1836)2月10日山形市長谷堂の西養寺第22世住職安達秀恩の末子として誕生した。幼名を俊丸(又は八郎)といい、字名は道承、雅号を竹雲といった。

 竹雲は幼少の頃から書道に親しみ、父からは漢書の学問を学んだ。
 12歳の時、姉の嫁ぎ先である山形市二位田村の明円寺に寄寓し、嘉永5年(1852)に養子として入籍し、姓を本沢と名のった。

 13歳の時、佐倉藩領である隣村の学塾に学び、16歳で上山松平藩の藩校明新館に転校し経史の勉強に取り組みながら、五十嵐龍渓に師事し書道を学んだ。翌年、さらに米沢の片山塾で指導を仰いだ。

 求学心旺盛な竹雲は安政4年に京都に赴き真宗の高倉学寮に入り、翌年には一人で江戸に出て藤森弘庵の門下生となり学問を究め郷里に戻った。その後再度江戸に出た竹雲に対し安井息軒の三計塾を継ぐように要請されたが、それを断り帰郷した。

 世は幕末を迎え動揺の時期に向かっていた。幕府は諸藩の名士を招き対策を講じようとした。竹雲も幕府の議に参画したが時の流れを止めることはできないと察知し再び郷里に戻った。

 その後上山の明新館で指導に当たっていたが、明治2年(1869)に入門生であった貫津村名主結城六右衛門の招きで五老山の麓に塾舎「格知学舎」を開設することになった。土地の名にちなんで五老学校ともいわれ、竹雲も老山先生とも言われた。格知学舎には間もなく30人程の寄宿生と10人以上の通学生が入門した。

 竹雲はここで仏教、儒教などを中心に漢学の指導に当たった。竹雲は入門してきた門弟に対し「学問は心と身を善に移す外無之候」と書いた手本を渡し、学問は人の道を歩み実践するために学ぶものであると教えた。

 竹雲は、世相が欧化主義に走り、すべてが洋風化し日本古来の道が失われていくことを嘆き、自らチョンマゲを結い門弟にも同じように求めた。このような竹雲の偉才を知り、新政府は登用しようとしたがそれを断り生涯塾生への指導に当たった。

 明治40年竹雲は病に倒れ、旧暦の9月7日72才の生涯を閉じた。格知学舎は竹雲の死後、2、3代学頭に継承され、昭和20年頃まで続いた。

 

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