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村山祐­太郎 天童市名誉市民
ピアノ線の人    村山 祐太郎

村山祐太郎は、明治38年(1905年)、父栄作、母ハルの3男として、天童町老野森に生まれた。村山家は代々裕福な家柄であったが、父親が事業に失敗し、貧乏のどん底に落ちてしまった。小学生であった祐太郎は、学校から帰ると幼い妹の世話や家事の仕事、内職の将棋駒づくりなどに励んだ。

 祐太郎は、親に世話をかけないで一人で生きる道を探していこうと、天童尋常高等小学校高等科2年生のとき、両親と兄の許しを得て上京した。彼はまだ13歳という子供ながら、独立独歩の道を選んだ。

 当時はまだ交通機関も発達していなく、東京までは12時間もかかる長旅であった。祐太郎は、出発するとき、母から渡された5円札を握り締め、「きっと成功してみせる、それまでは天童に帰らない」と固く心に誓った。

 祐太郎は、当時天童出身で東京京橋で自転車店を営んでいた今野さんを頼った。奉公先についた祐太郎は、一日も早く独立したいという願いから、毎日だれよりも早く起きて店の仕事に打ち込んだ。また、店の主人の好意で夜間の商業学校に入学、卒業後は明治大学の夜間部に進学し学問にも励んだ。

 大正12年(1922年)関東大地震が発生した。奉公人のほとんどは故郷に帰ったが、祐太郎は東京に残り、2年後に小さな自転車店を開店し、事業家としてスタートした。この事業を成功させ、店を拡張しながら仕事に打ち込み、その後鈴木金属工業株式会社を創設した。ここで祐太郎は、日本では初めてとなるピアノ線の生産を始めた。当時、ピアノ線はスウェーデン製がすぐれていたが、さまざまな苦労を乗り越えてピアノ線の国産化に成功した。その後も、PC鋼線、ステンレス線、パラレルワイヤなどさまざまな製品を生み出し、日本の産業の発展に大きく責献した。

 祐太郎は、小さいときから多くの人との出会いを大切にし、その出会いの中で学びながら成長してきた。中でも、彼が37歳のときに出会った熊谷守一画伯からは親しく指導を仰ぎ、画伯が亡くなるまで交友を深めて大きな影響を受けた。

 村山祐太郎は、平成2年9月15日に亡くなった。享年85歳であった。

 天童市は、熊谷守一画伯の作品24点の寄贈を受けたこと、青少年の健全育成のために活躍したことなど、郷土の発展に大きく責献したことから、村山祐太郎に対して天童市名誉市民の称号を授与した。
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