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 田中稔 「藤坂5号」を育てた農学者 田中 稔


 農学者田中稔は明治35(1902)年10月15日、父田中秀穂の長男として東京都本郷区で生まれた。稔には姉と妹がいて、姉の名はイネ、妹はユタカといい、3人の名前に託された父秀穂の米に対する願をくみとることができる。

 父は朝鮮にわたって開拓に従事していたが、志を半ばにして亡くなった。また、母親も病気を患い家族は父の郷里である高擶村に帰り、稔は高擶尋常小学校4年に編入学した。
 大正10年山形県立村山農業高等学校に進学し、3年後に特待生として卒業したが、農学校の先生方の勧めで三重高等農林学校に進学し、動物遺伝学を専攻しながら農業に関する研究を積み、卒業後農林省に就職することになった。

 昭和4年、秋田県農事試験場への転勤が決まり、稔は大館市にある陸稲試験地で稲の品種改良の仕事をすることになった。この地で6年間、帰宅時間も忘れるほど研究に没頭してきた稔に、昭和10年、青森県に新しくできる農林省冷害防止試験地での研究を勧められた。

 稔は家族とともに、青森県藤坂村に着任した。しかし、この試験地は開設したばかりで設備の最も乏しいところであった。たまたま、赴任した年は作況指数が41という厳しい冷害に見まわれ、試験地の稲もほとんど実らなかった。

 翌11年から藤坂試験地でも冷害研究をはじめ、稔の本格的な研究が開始された。稔は冷害を防ぐためには、これまでの品種よりも少し取れ高が少なくとも、早く穂が出て、早く実る品種を作り、取れ高を安定させることが大事であると考えた。

 昭和16年も大変な冷害の年であったが、試験地の稲の中に取れ高の多い品種が出てきて「藤坂1号」と命名された。その後も改良を続け、藤坂2号、3号、4号と新しい品種を生み出していったが、収穫量では満足できるものではなかった。

 昭和21年、肥料と取れ高の関連性を追求してきた稔は、肥料を多量に投入すれば、これまでのどの品種よりも取れ高の多い品種を発見した。この稲こそ東北の農民を救った「藤坂5号」であった。この品種の早熟、多収性は冷害の防止に役立ったことはもちろん、収穫量の向上にも大きく貢献し寒冷地稲作の面目を一新させた。

 田中稔は昭和28年から17年間、青森農事試験場長として活躍し昭和45年に退任したが、その後も顧問として引き続き農業技術の向上に取り組み、アメリカ、韓国、中国等との交流にも努めてきたが、54年に顧問を退任した。稔は80歳半ばまで農業技術の指導を行ってきたが、平成5年6月29日に90歳の生涯を閉じた。


参考 天童市立旧東村山郡役所資料館発行 天童が生んだ人物「田中稔」
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