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国指定文化財


若松寺観音堂 所在地 大字山元
所有者 若松寺
概要 入母屋造、銅板葺
製作年代 室町時代後期
指定の区分 国指定重要文化財
 若松寺は、縁結びの寺として知られ、最上三十三観音の第一番札所となっている。
 その創建については、明らかではないが、寺伝によれば、和銅元年(708)に行基(ぎょうき)が開基し、その後、慈覚大師(じかくだいし)によって、山頂から現在の地に移されたと言われている。
 現在の観音堂の建立についても、それを明らかにする資料はないが、その様式や建築手法から、室町時代後期の建立であると考えられる。なお、慶長年間には、当時、山形城主であった最上義光(もがみ よしあき)の庇護を受け、慶長16年(1611)に大改修が行われている。
 建物は、桁行(けたゆき)及び梁行(はりゆき)とも5間四方で、周囲に縁(えん)をめぐらし、正面の扉は、立石寺の中堂と同様、長押(なげし)を使用しておらず、禅宗の様式である藁座を用いた扉を吊りこんでいる。内部は、格子戸(こうしど)により正面、外陣(げじん)及び内陣に分けられており、内陣には、須弥壇(しゅみだん)を設け、かつ、厨子(ずし)が安置されている。また、立石寺の中堂と比較した場合、外陣が内陣よりも広く取られているのは、仏堂建築の時代的な変化を表しており、大変興味深い。
 さらに、正面の向拝(こうはい)の蟇股(かえるまた)は江戸時代の後補であり、屋根は昭和43年(1968)に完了した修復工事の際、柿葺(こけらぶき)から柿葺型銅板葺に改められているが、室町時代後期の特徴をよく表している建物である。
板絵著色神馬図 所在地 大字山元
所有者 若松寺
概要 縦163.0cm、横182.5cm
製作年代 室町時代、永禄6年(1563)9月18日
指定の区分 国指定重要文化財
 県内に所在する絵馬の中で、唯一、国指定重要文化財に指定されている神人曳馬(じにんひきま)の図である。この絵馬は、中央では、織田信長が天下布武への道を歩み始めた永禄6年(1563)9月18日の若松観音の縁日に、当時、寒河江城主であった大江氏の家臣郷目貞繁(ごうのめ さだしげ)が亡妻の菩提を祈って奉納したものである。立烏帽子(たてえぼし)をつけた神人(じにん)が曳(ひ)く鹿毛(かげ)の馬がたくましく描かれており、武人画家の気骨さを見事に表している。
 板面には、「奉納馬形 旦那郷目右京進妻女菩提故也 寒河江内郷目右京進貞繁書(花押)于時永禄六秊癸亥九月十八日」と郷目自身が記している。なお、板面中央の上部に描かれている「観音御寶前」は、後人の筆である。また、裏面には、「寒河江の内 さひく大泉しんひやうへ とうかし三さえもん さへもん太郎 永禄六年ミつのとのい(癸亥)の九月十八日」と記されており、この絵馬が寒河江の細工師(職人)の手によって描かれたことが分かる。このことから、少なくとも、16世紀の中頃には、近親者などの菩提を弔うため、当時、最上観音の霊場であった若松寺に絵馬を奉納する信仰があったのであろう。この絵馬は、当時の若松観音が広く人々に知られていたことを物語る資料として、大変貴重である。
 また、絵馬には、随所に落書きが見られることから、この絵馬が永らく参拝者の手に届く場所に掛けられていたとことが推察される。
金銅聖観音像懸仏 所在地 大字山元
所有者 若松寺
概要 径75.7cm、重さ60kg
製作年代  鎌倉時代、弘長3年(1263)
指定の区分 国指定重要文化財
 懸仏は、円板の中央に仏像を取り付けた上、寺院や神社の壁に懸けるものであり、御正体(みしょうたい)とも言われ、銅や鉄で鋳造したものもあれば、木製又は土製のものもある。また、仏像は、観音(かんのん)、弥陀(みだ)、薬師(やくし)等が取り付けられており、中には、三尊仏を取り付けたものもある。さらに、仏像の周囲に天蓋(てんがい)、光背(こうはい)、花文様等を表した場合もある。これらの懸仏は、神仏習合の信仰の広まりに伴い、平安時代から江戸時代にかけて盛んに造られ、寺院や神社に奉納された。
 若松寺の金銅聖観音像懸仏は、金銅製の聖観音坐像であり、優れた技巧により造られた、日本最大級の大きさの懸仏である。
 その容貌は、頭光(ずこう)と身光(しんこう)を備えた高垂髻(こうすいけい)であり、静かな知性をたたえている。また、左手に未敷蓮華(みふれんげ)を持ち、右手は、説法の印を結び、かつ、前に突き出している。さらに、裏面には、寄進の趣旨、寄進された年月日「弘長三癸亥五月八日」及び寄進した人々の名「成生荘(なりうのしょう)大壇那藤原真綱ほか結縁」が陰刻されている。
木製十一面観音像懸仏 所在地 大字貫津
所有者 昌林寺
概要 径36.5cm
製作年代 鎌倉時代、安貞2年(1228)9月
指定の区分 国指定重要文化財
 昌林寺は、江戸時代の初期まで天台宗「松林寺」と称していたが、その後、曹洞宗に改宗し、寺号も現在の「昌林寺」になったと言われている。
 この懸仏は、桂材の円板の中央に 頭光(ずこう)と身光(しんこう)を備え、蓮華台の上に座している像高28.4cmの十一面観音を浮彫り(うきぼり)にしている。近年、昌林寺の境内にある白山小祠(はくさんしょうし)から発見された懸仏であり、裏面に「奉造立白山御躰、松林寺、安貞二季大歳戊子九月日、勧進修(僧)業恵(慶)玄住(性)房、佛子經円」の墨書銘が、また、その上に薄く「瑞宝山」と記されているのが見えることから、この懸仏が過去に寒河江市の慈恩寺(じおんじ)にあったことが分かる。
 この懸仏は、右手に水瓶(すいびょう)、左手に数珠(じゅず)を持ち、頭上の化仏(けぶつ)は、2段に造られている。また、その顔は、優しい微笑をたたえ、天冠帯(てんそくたい)、条帛(じょうはく)及び天衣(てんね)が柔らかくその体部を流れて覆っている。
 この懸仏のような、1つの材木から彫り出した懸仏は、東北地方に比較的多く存在するが、この懸仏は、京都の三条仏所にいた円派の經円(きょうえん)の作であろうと言われている。その容貌は、都風の気品に満ちており、流麗かつ量感が豊かで、鎌倉時代の初期の作風をよく表しており、現存する木造の懸仏としては、日本最古のものとして注目されている。なお、この懸仏と同巧の観音像懸仏が現在、奈良国立博物館に所蔵されており、これにも、「佛子經円」の銘が記されている。
西沼田遺跡公園 所在地 大字矢野目
所有者 天童市 
概要 面積44,977平方メートル
製作年代 6世紀後半〜7世紀
指定の区分 国指定史跡
 西沼田遺跡は、天童市蔵増地域矢野目地区の水田を山形県が県営圃場整備事業として整備する際に発見され、昭和60年(1985)に山形県教育委員会により緊急発掘調査が行われ、その結果、6世紀後半から7世紀にかけての貴重な農村集落跡であることが確認された。
 その後、平成9年度から平成16年度までに実施された天童市教育委員会による追加の発掘調査により、14棟の平地式の掘立柱建物跡と2棟の高床倉庫跡が確認され、また、河川跡や水田の畦畔跡、溝、井堰などの遺構が検出された。
 平地式の掘立柱建物跡については、長方形の平面を持っているものが多かったが、中には、住居内に丸材を敷き詰めた床敷様式の建物も一部確認された。さらに、土師器(はじき)や須恵器(すえき)、さらには、鋤(すき)、鍬(くわ)、田下駄(たげた)、鎌(かま)、竪杵(たてぎね)等の農具、曲物(まげもの)、槌(つち)、下駄、櫛(くし)、弓矢、織機の部品などの木製品が遺物として数多く出土している。
 西沼田遺跡は、古代の農村集落が東北地方に存在していたことを証明し、かつ、それらが復元可能な状態で保存されていたことから、これまで謎であった、東北地方の古代の農村のくらしを解明する上で貴重な資料として、全国的にも大変注目されている。
 なお、平成20年(2008)には、史跡公園としての整備が完了し、現在は、「西沼田遺跡公園」として市民の生涯学習の推進のために活用されている。 

西沼田遺跡公園のホームページは、こちらから
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担当課:教育委員会生涯学習課
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