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県指定文化財

清池の石鳥居

清池の石鳥居 所在地 大字清池
所有者 高擶有財産区 
概要 高さ387cm
製作年代 平安時代後期
指定の区分 山形県指定有形文化財

 両柱の間が3メートルの凝灰岩(ぎょうかいがん)製の鳥居であり、平安時代後期の建立と推定される。柱の上にのる笠木(かさぎ)と島木(しまぎ)一つの石からなっており、ほとんど直線的である。柱の上方にあった貫(ぬき)や束(つか)は失われてしまったが、その痕跡が両方の柱に残っている。柱は太く、上方がすぼまり、胴張りの感じがあって、力強く、古拙(こせつ)な趣(おもむき)がある。「最上の三鳥居」の一つと言われ、すぐ西側を古い街道である横街道が南北に走り、もとは、山寺に向かって立っていたものと考えられる。この時期の鳥居は、全国的にも類例が少ないことから、大変貴重な文化財である。

 

旧東村山郡役所

旧東村山郡役所資料館 所在地 五日町 
所有者 天童市 
概要 木造3階建、瓦葺
製作年代 明治時代
指定の区分 山形県指定有形文化財

 この建物は、明治11年(1878)に郡制が布かれたことに伴い、東村山郡役所として創建されたものであり、明治12年(1879)10月に落成し、同年11月16日に開庁した。
 現在、県内に所在する明治時代の洋風建築物のうち、最も古い年代のものであり、明治14年(1881)の9月に明治天皇が巡幸された際には、行在所(あんざいしょ)として使用されている。
 創建当初は、3階に塔屋(とうや)を持つ瓦葺(かわらぶき)及び漆喰(しっくい)壁の当時としては斬新な建物であったが、明治32年(1899)以前に現在の建物に改造されている。
 玄関ポーチ、ベランダの八角柱、繰り型のある礎盤、柱頭、勾欄(こうらん)、柱上の小壁の彫刻、入口のステンドグラス等の細部の装飾は、素朴であるが、デザインに優れ、明治時代初期の堅実な手法を現在に伝えている。また、昭和60年(1985)11月16日の開庁106周年記念日には、建物の解体及び復元工事が完成し、その細部についても、創建当初の姿がよみがえった。
 なお、この建物は、背後にある天童公園一帯の風景にも見事に溶け込んでおり、周囲の自然と一体となった壮麗かつ典雅な建築美を醸し出している。

 

絹本淡彩御殿山品川潮干狩図
日本海晏寺奥山海苔取遠望図

絹本淡彩御殿山品川潮干狩図 所在地 大字寺津 
所有者 個人蔵 
概要 双幅(縦90.4cm、横30.1cm)
製作年代 江戸時代後期
指定の区分 山形県指定有形文化財

 この図は、春の御殿山から遠く品川の汐干狩を望んだ風景と秋の海晏寺から海苔取りの様子を遠望する風景の2図を双幅としている。
 爛漫(らんまん)と咲く桜花と燃えるような紅葉をそれぞれ近景として桜と楓の太い幹を半分ずつ描き、その間から海を遠望する構成は、近代的な遠近法を加味した広重らしい、洒脱(しゃだつ)な構図となっている。
 歌川広重は、寛政9年(1797)に定火消屋敷の同心であった安藤源右衛門の子として江戸で生まれ、15歳のときに歌川豊広(とよひろ)に入門し、27歳で浮世絵師となり、その後、東海道五十三次、名所江戸百景などの多くの版画を輩出した。
 また、当時、広重は、天童織田藩の江戸詰め藩士であった吉田専左衛門及び木村宮之助と狂歌仲間として親交があったことから、嘉永年間(1848〜1854)以降、天童藩主織田信学(のぶみち)から依頼を受け、多くの肉筆画を描いている。これらの肉筆画は、謹厳、豪華かつ丁寧に描かれており、さらに、側に金泥により題名が付され、広重の墨書款(立斎(りっさい))も記されていることから、「天童広重」として大変珍重されている。

紙本墨画 葡萄栗鼠図

所在地 一日町
所有者 公益財団法人 出羽桜美術館
概要 一幅(縦126.5cm、横46.5cm)
製作年代 江戸時代前期
指定の区分 山形県指定有形文化財

    剣豪宮本武蔵は、晩年には熊本藩細川家に身を寄せた。客人として遇され、絵を描き、鍔(つば)や小柄などの細工を行っていたという。本図は武蔵の葬儀を執り行った細川家の家老米田家に伝来したもので、真筆の見極めが難しい武蔵の作品のなかで間違いのない来歴をもった作品の一つである。

 画面上部中央から葡萄の葉と蔓が垂れ下がり、そこから右下に向かって伸びた枝に、葡萄の実を食べようと身をひねった栗鼠が描かれている。墨の濃淡のみで栗鼠の体の柔らかさ、目と手足の硬さ、葡萄の葉の重なり、螺旋を描く蔓を的確に表現している。多くの実をつける葡萄と多くの子を産むとされる栗鼠の組み合わせは子孫繁栄の願いを込めて中国で生まれた画題である。日本にもたらされた後は、「武道に律す」と読みが通じることから、武士に好まれた。恩義ある家に対する武蔵の感謝の想いが伝わる画題選択である。

紙本墨画 達磨図 無款

所在地 一日町

所有者 公益財団法人 出羽桜美術館

概要 一幅(縦66cm、横29cm)

製作年代 室町時代
指定の区分 山形県指定有形文化財

 水墨画は鎌倉時代に禅宗とともに中国から日本にもたらされた。このため、早い段階から禅宗の始祖である達磨を描いた作品が見られる。達磨図には始祖像としての肖像画、逸話にちなんだ「芦葉(ろよう)達磨図」「隻履(せきり)達磨図」などがある。

 本図のように達磨の上半身を墨のみで描く作品も複数伝存している。これらの達磨図に共通して見られる特徴は、繊細な筆致で顔を描き出しながらも、衣は力強く太い線を一気に走らせて表現するという、対比的な描写である。これによって達磨の偉大さ、高潔さを表しているのであろう。

 本図は、緻密に淡墨線を重ねて表した頭髪・眉・髭に加えて、眉間のしわや瞳、耳の穴、耳輪(みみわ)を鋭い濃墨線で描くことにより、達磨の品格と気迫がよく表されている。無款ではあるが、高度な画技を身につけた画僧の作と思われる。

 郷目貞繁(ごうのめさだしげ)が手本として京より持ち帰ったものという言い伝えがある。

 

絹本著色 東都品川八ツ山図 京四條之涼図 浪花天保山図 歌川広重筆 附 軸箱

 所在地 老野森
所有者 天童市美術館
概要 三幅対 縦90㎝ 横30.1㎝
製作年代 江戸時代後期
指定の区分 山形県指定有形文化財

右幅は品川宿の八ツ山から見下ろした江戸湾の雪景色、中幅は加茂川の中州の川床で涼む女性、左幅には桜に彩られた大坂の天保山が描かれている。3都の名所に雪・月・花および冬・夏・春の季節の情趣を添える組み合わせは、(わずかばかり知られる、)他の天童広重の三幅対にも見られるものだが、中幅に女性を配するものは珍しい。また、女性の背後に描かれる加茂川に接続するように、右幅の江戸湾、左幅の大坂湾が配されており、水面のつながりによって空間的な広がりが表現されている。風景画の名手・広重の手腕がいかんなく発揮されている逸品である。

表具・箱ともに当初のものであり、蓋の裏面の墨書から、嘉永(かえい)7年(1854)に山形の豪商であった福島治助家が拝領したものであることがわかる。これまで天童広重の三幅対としては、村井清七家、佐藤利兵衛家ゆかりものが知られていたが、本作品の出現により天童藩と山形の五大商人との関係の深さがうかがえる貴重な歴史資料でもある。

線刻聖観音鏡像

線刻聖観音鏡像 所在地 大字山元
所有者 来吽院
概要 直径30.3cm
製作年代 鎌倉時代初期
指定の区分 山形県指定有形文化財

 鏡像又は懸仏は、元々、御正体(みしょうたい)と呼ばれ、平安時代以降、天台法華の教えによる神仏習合の信仰の広まりに伴って作られるようになったものであるり、その形態としては、時代の変遷を経て、3つの段階に分けることができる。
 第1段階は尊像を線刻で表したものであり、第2段階は尊像を半肉のレリーフ状にしたものであり、第3段階は尊像を別に作り、それを鏡板に貼り付けたものである。その後、第1段階のものを鏡像と呼び、第2段階及び第3段階のものを懸仏と呼ぶようになった。
 この鏡像は、鏨彫(たがねぼり)による線刻で表されている。丸顔で、かつ、伏し目がちな面相には、国風文化の影響が感じられる。蓮華座に結伽趺坐(けっかふざ)し、左手に未蓮華(みれんげ)を持ち、中品(ちゅうぼん)の印を取る右手を添え、また、光背や覆輪もきちんと整形されており、とても丁寧に彫られている。さらに、平安時代の作であると言われている比叡山横川中堂の本尊である木造聖観世音菩薩(国重要文化財)と姿が類似しており、このことは、この鏡像が奉納された当時、若松寺が天台宗の宗派であったことを物語る貴重な資料となっている。なお、吊鐶(ちょうかん)には、鍍金(ときん)が見られることから、作られた当初は、この鏡像全体に鍍金が施されていたのではないかと推測される。
 この鏡像は、以前は、若松寺の馬頭観音堂に安置されていたが、大正12年(1923)に発生した観音堂の火災の際、鐘楼の崖下の土中に埋めてしまったことから、その後、その存在が忘れられていたが、昭和19年(1944)に偶然発見されたものである。

 

格知学舎

格知学舎 所在地 大字貫津
所有者 個人
製作年代 明治時代
指定の区分 山形県指定史跡

 格知学舎は、明治2年(1869)に浄土真宗の学僧であった本澤竹雲が開設した私塾であり、建物は、明治3年(1870)に落成した。
 主屋は、桁行(けたゆき)10間、梁行(はりゆき)4.5間の木造2階建てで、1階には4部屋、2階には2部屋があり、教室、講堂、住居等として使用された。また、別に食堂、炊事場及び物置として使用された附属の建物があった。
 さらに、これらの建物の周りを京風のタカオカエデの樹木群が現在も取り囲み、辺りに清々しい、かつ、静閑な雰囲気を醸し出している。
 山形市の長谷堂の出身である竹雲は、貫津村の名主であった結城六右衛門を始めとする村山地方の好学の者たちからの招聘(しょうへい)に応じ、僧を隠退してこの地に学舎を開き、竹雲の孫である都講(とこう)の時代の昭和21年(1946)までの約70年間、近郷の地主層の子弟等に対して、起居を共にしながら、仏教、儒学などの日本古来の伝統に即した教育を行った。
 竹雲は、大変礼儀正しく、かつ、信仰心が厚かったため、最後までチョンマゲに和服姿であったが、述べ180人余の入塾者たちに与えた社会的な影響は、とても大きなものがあった。

 

格知学舎関係資料

格知学舎関係資料 所在地 大字貫津 
所有者 個人
概要 3種(5,312点)
製作年代 江戸時代〜明治時代
指定の区分 山形県指定有形文化財

 格知学舎は、明治2年(1869)に本澤竹雲によって開設された私塾である。塾生は、村山地方の地主層の子弟が多く、竹雲自らが塾生と起居を共にして、欧化思想の教育が急がれたこの時代に日本の伝統に即した、異色の教育が行われていたが、その思想的な背景を物語る文献資料として、大変貴重である。
 資料は、経書、仏書、歴史書、地誌、道徳書、絵図などの教科書類が合わせて5,237点、入門帳、日記類、書跡類などの寄宿舎生活の様子が分かる資料が合わせて75点保管されている。また、この資料は、江戸時代から明治時代にかけて刊行された書籍としても大変貴重なものとなっている。
 現在は、昭和52年(1977)5月に山形県及び天童市の補助を受けて格知学舎の側に建設された耐火構造平屋建ての収蔵庫(51.67平方メートル)に保管及び展示されている。

 

納札及び順礼札

納札及び巡礼札 所在地 大字山元
所有者 若松寺
概要 10枚(納札2枚及び順礼札8枚)
製作年代 室町時代、延徳4年(1492)〜永禄6年(1563)
指定の区分 山形県指定有形文化財
 

 順礼札は、西国順礼に赴いた地元の人々が無事に順礼が成就したことを記念して納めたものである。そのうち、最も古いものは、延徳(えいとく)4年(1492)に奉納されており、このことは、当時、この地の人々がすでに篤い観音信仰を持ち、遠く西国観音の札所まで順礼に赴いていたことを示す貴重な資料となっている。特に、文亀(ぶんき)元年(1501)及び同2年(1502)の西国順礼の札が合わせて4枚残っており、また、若松寺の御詠歌と西国観音の札所である亀岡市曽我部町の穴太寺の御詠歌が同じ内容であることから、最上観音の霊場の成立については、西国観音の霊場から多大な影響を受けていたことが伺える。
 順礼札のうち、大永(だいえい)6年(1526)の順礼札に記されている「出羽州最上郡卅三度巡禮宇多郡住人」は、宇多郡(現在の福島県相馬市付近)の住人であり、最上郡の観音に33回順礼に訪れ、最後に、満願御礼として若松寺の観音堂に順礼札を納めている。このことは、16世紀の前半には、若松寺の観音堂が観音霊場の地として広く人々に知られていたことを示している。ちなみに、永禄(えいろく)6年(1563)は、寒河江城主大江氏の家臣郷目貞繁(ごうのめ さだしげ)が若松寺に絵馬(板絵著色神馬図)を奉納した年に当たる。
 さらに、文亀元年の2枚の順礼札には「村山郡天童」の文字が見られることから、当時、若松寺付近の地は、すでに「村山郡」と呼ばれていたのではないかと考えられる。

 

カクレトミヨ生息地

イバラトミヨ生息地 所在地 大字高木 
所有者 高木地区ほか
指定の区分 山形県指定天然記念物

 成生地域高木地区の八幡神社の境内にある第1及び第2ひょうたん池とその下流にある高木川の流域にカクレトミヨが生息している。これまでイバラトミヨ特殊型と呼ばれていたが、背鰭棘の鰭膜が黒色で、肩帯骨が発達し、鱗板が退化しているなど、他のトミヨ属魚類とは、形態的特徴が明確に異なっていることから、令和3年9月に新種として「カクレトミヨ」と学名が決定された。
 カクレトミヨは、トゲウオの仲間で、体長が4センチメートルから5センチメートルの淡水産の魚であり、背びれに7本から9本のトゲがある。氷河期からの遺存種であり、「生きた化石」とも言われ、学術的にも極めて貴重な魚である。
 繁殖期である春になると、雄が巣を作り、それに雌が卵を産む。そして、その卵がふ化するまで雄が世話をするという、珍しい魚でもある。また、このカクレトミヨが生息するためには、年間をとおして水温が摂氏(せっし)12℃前後の流れが緩やかで、水草があり、かつ、水量が一定している清流でなければならない。そのため、以前は、山形県内の村山、最上及び庄内地方の湧水がある清流には、かなり広く分布していたが、その後の都市化や水田の基盤整備等の進展に伴い、現在は、絶滅の危機に瀕(ひん)しており、環境省が定める「絶滅危惧種」に指定されている。
 しかしながら、この高木地区を含めた成生地域では、カクレトミヨの生息地の保護活動に対する地域住民の関心と熱意が高く、年間をとおして保存会の活動が活発に行われているため、その生息条件が保たれている。

 

ジャガラモガラ

ジャガラモガラ 所在地 大字貫津
所有者 上貫津地区
指定の区分 山形県指定天然記念物

 ジャガラモガラは、雨呼山(あまよばりやま)の北西の標高570mのところにある大きなくぼ地の南端にある、標高550mの等高線で囲まれた東西30m、南北62mのすり鉢状のくぼ地を言う。
 くぼ地の底は、複雑に変化しており、地下は、すべて流紋(りゅうもん)岩の礫石(れきせき)が埋積されている。また、くぼ地の底でありながら、水がたまることがない。さらに、くぼ地内には多くの風穴(ふうけつ)があり、真夏でも0度前後の冷風が噴き出て、その冷風がくぼ地全体を包み込んでいるため、極めて特異な植生が生じている。
 具体的には、一般的に高山において見られる植生とは逆に、くぼ地から高度が上がるにつれて、草木、低木、高木へと植生が変化している。また、植物の春の芽生えが遅く、ベニバナイチヤクソウ、コキンバイなどの亜高山性の植物が群生している。さらに、レンゲツツジ、ヤナギラン、ハンゴンソウ、ナンブアザミ、ホソバノキリンソウ、キセワタ、チョウセンゴミシ、トモエソウ、ミツモトソウ、ノダケ、ツリガネニンジンなどの非常に珍しい植物が数多く見られることから、学術的にも貴重な場所となっている。

 

ジャガラモガラを彩る植物

※開花時期はおおよその目安で、気象条件等により前後する場合があります。

オクチョウジザクラ
開花時期 5月中旬ごろ

山桜の一種である。低木性の桜で、薄桃色の花がまばらに咲く。冬枯れのジャガラモガラの中でいち早く花を咲かせて春の訪れを告げる。
コキンバイ
開花時期 5月下旬ごろ

高さ10センチほどの花茎の先端に、直径2センチほどの可憐な黄色い花をつける。周りの植物が芽吹く前にジャガラモガラに群生する。
ベニバナイチヤクソウ
開花時期 5月下旬ごろ

常緑の多年草で、根元から長い柄のある丸みを帯びた肉厚の葉がついており、ピンク色の花をつけ、ジャガラモガラの斜面付近に群生する。
レンゲツツジ
開花時期 6月中旬ごろ

朱色や橙色の大きくボリュームのある花が咲き、ジャガラモガラ一帯に群生する。
ヤナギラン
開花時期 8月上旬ごろ

赤紫色の花が咲いたところから実が熟し始めて、10センチほどの鞘が4つに裂けて絹のような真っ白い綿毛が顔を出す。夏にジャガラモガラ一帯に群生する。
キセワタ
開花時期 8月下旬ごろ

茎が四角で真っ直ぐに伸び、高さは80センチぐらいになる。葉と茎の全体に毛があり、淡い紅色の花が咲く。
 
 

仲野半四郎氏庭園

所在地 一日町

所有者 個人蔵

製作年代 明治時代
指定の区分 山形県指定文化財 名勝

 明治20年(1887)から明治30年(1897)に八代目仲野半四郎によって作庭され、大正・昭和に一部改修されている。主屋の北側に位置し、庭の北側に高さ1mの築山、その南と西裾に池を設置する池泉鑑賞式庭園である。借景に舞鶴山を取り入れたため、庭園は屋敷の北に配置されており、「築山」「池」「石」がコンパクトにまとまった構成をなしている。石材には、山石ではなく川原石を使うという山形の特徴が出ており、とろとろの自然石、雪見灯籠を使用することも山形の特色である。

 全国の近代個人庭園の中で、作庭時期・意図を明確にする碑文の存在、作庭からの変遷が古写真などにより明確になる数少ない例であり、かつて、文化の中心であった豪農が作庭した、時代性・地域性をあらわすものとして貴重な文化財である。

 

この記事に関するお問い合わせ

担当課: 教育委員会生涯学習課
tel: 023-654-1111
fax: 023-654-3355

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