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天童織田藩のあらまし


織田家の系図(略図)
 天童織田藩は、織田信長の次男信雄を祖先にもつ藩であります。
 織田信長が天正十年(1582年)家臣の明智光秀に襲われ本能寺で自害し、次男信雄が跡を継ぐことになりました。その後、織田家は小幡藩(群馬県甘楽町)や高畠藩(山形県高畠町)を治め、天保二年(1831年)に、藩主の信美が天童に入り、天童織田藩が成立しました。
 天童織田藩の石高は、およそ2万3千石で、領地は村山地方(村山郡)21カ村でありました。現在の天童市の中では、天童、大清水、窪野目、長岡、芳賀、寺津、小関、荒谷にありました。
 その当時、現在の天童市には天童織田藩領のほか土浦藩北目分領、館林藩領、幕府領、棚倉藩領の村々が混在しました。
 天童と織田藩のかかわりは、高畠に国替えになり天童がその支配下に入ってから、幕末に織田藩が消滅するまでの、およそ100年間になります。
その中でも、天童館(現天童市田鶴町)を中心に家臣たちを住まわせ、直接、織田藩が天童を治めていたのは、織田信美以降、わずか約40年間でありました。

(1) 建勲神社
 建勲神社は、織田信長を祀った神社です。明治3年に、天童藩知事織田信敏が舞鶴山山頂近くに建立し、明治17年に現在の場所に移転されました。境内の社そうは見事なアカマツの美林になっていて、市の天然記念物に指定されています。

(2) 吉田大八
 吉田大八は、天保3年(1832年)、江戸天童藩邸に生まれました。15歳で父の跡を継ぎ、天童藩大目付、武具奉行、藩校養正館督学(校長)などの要職を経て、慶応3年(1867年)中老に昇進しました。要職を歴任する中で、江戸では安積艮斎に就いて儒学を学び、天童では、藩財政の立て直しに取り組みました。当時、天童織田藩の財政は困難にあえいでいました。大八はその救済策の一つとして将棋駒の製作を奨励したといわれています。また、戊辰戦争の時には、藩主織田信学の代理として、奥羽鎮撫使先導役を務め、薩摩・長州などの官軍と共に庄内軍と戦いましたが、庄内軍に攻められ焼かれてしまいました。その後、奥羽列藩同盟が成立するにおよんで、藩の責任を負い、明治元年6月(1868年)切腹して果てました。

三宝寺御霊屋 (3) 三宝寺
 文政13年(1830天保元年)天童織田藩は、織田宗家の菩提寺として三宝寺に織田家御霊屋(御位牌堂)を造りました。この御霊屋には、織田信長の位牌をはじめ、織田家歴代藩主の位牌が納められています。また、御霊屋の正面には織田信長の肖像画が飾られています。
織田信長肖像画 この肖像画は宣教師が描いたといわれ、それを明治の中頃、天童織田藩出身の宮中写真師大武丈夫が複写したものです。近年、マスコミや雑誌などの表紙に取り扱われ話題になっているものです。
 
 織田信長サミットは、全国各地の織田信長にゆかりの市町村が集い、観光・文化・産業振興を根幹に据えたまちづくりを共に考え、交流を深めることにより、歴史と文化を背景とした魅力ある個性豊かなまちづくりを進めるため、構成市町村を会場とした持ち回りで開催されています。
 昭和59年、織田信長生誕450年を記念し、滋賀県安土町(現・近江八幡市)の提唱で第1回織田信長サミットが開催されたのを皮切りに毎年開催されてきましたが、平成19年の第22回サミットからは2年に1度の開催となりました。このうち、昭和62年11月の第4回サミットと、平成14年6月の第19回サミットが、天童市を会場として開催されています。
 現在は、本市を含めた10市町により織田信長サミットが構成されており、第27回サミットは、平成29年11月11日に静岡県富士宮市で開催されます。
 第27回織田信長サミット (358KB)
 
 

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